改正鉄道敷設法に挙げられた、一七八の敷設予定線は、明治二十五年から調査されてきた路線で、調査の概要および沿革は大正十年一月の鉄道省「鉄道線路調査ノ起源及沿革概要」(前掲)に明示され、北海道については「鉄道敷設法予定線北海道ノ部」として記載され、この中に函館、釜谷間が「函館から釜谷十三哩」と記されている。この予定線については、大正十年一月三十一日付け「函館日日新聞」に「鉄道予定線路」として「一昨二十九日、政府より衆議院に提出せる鉄道敷設法に依る予定路線中函館関係のもの」として報道されている。
また、これより先、大正九年十二月に鉄道省から提出された「鉄道敷設法予定線路一覧」(前掲「公文類聚第四十六編巻二十四」)では、これら路線の重要貨物および敷設理由が述べられており、このことから調査の開始時期は明らかではないが、函館、釜谷間の鉄道敷設に関する調査は大正九年末には終了していることがわかる。また、大正十年一月十八日付け「函館日日新聞」に掲載された「釜谷鉄道急設期成同盟」と題された記事に「函館釜谷鉄道は先年軍事当局及び鉄道院に於いて調査を遂げ、大正九年一月、鉄道院の編成に係る鉄道線路網表に予定線として登載されあり…」とあることから、大正九年の早い時期に調査が終了していたともみることができる。
この函館、釜谷間の鉄道敷設であるが、「鉄道敷設法予定線路一覧」にはその敷設理由として、「沿道ハ海陸ノ物資豊富ナルヲ以テ一般産業ノ発展ヲ図ルト共ニ既成線ノ営養タリ」とし、重要貨物は輸出が「海草、鰮粕、鰮油、生鰮、鮭、鯣、活鮮魚」、輸入が「米、清酒、砂糖、石油、縄、莚、醤油、陶磁器、雑貨」の品々を挙げ、同線を海産物と生活物資を主体とした貨物輸送をおこなうことにより産業の発展と既存の鉄道線の活性化を計る支線として位置付けている。
函館、釜谷間のほか、函館近郊では上磯、江差間四四哩、木古内、福山間三四哩、八雲、利別間二四哩が敷設予定線として挙げられているが、「向後三十年を期して完成され可き」(大正十年一月十八日付「函日」)と報道されていて、建設の時期や完成予定時期は明らかにされていない。しかし、これらの地域では建設促進に向けた動きが活発化してくるのである。
函館、釜谷間が国有鉄道による敷設予定線となると同時に、沿線では速やかな建設を要求する速成期成同盟会が結成された。大正十年一月十六日、銭亀沢村大字志苔村の松田令司が主唱者となり、湯川芳明館に関係三村一九地区の有力者および三村長が参集している(大正十年一月十八日付「函日」)。この期成同盟会については、大正十年一月十八日付け「函館新聞」にもほぼ同じ内容の記事が掲載されている。同期成会は「函館釜谷間の鉄道は国防及び地方発展のため急設の必要有り、且つ有利の路線なるを以て之れが速成を期する事」とし、速成のため湯川村、銭亀沢村、戸井村の三村一九地区による「急設期成同盟会」を創設し、各村による「速成請願書」の提出と本鉄道敷設敷地の「地主による寄付」などを決議したことを伝えている。なお、大正十年二月二十日付け「函館日日新聞」で「函館汐首間を貫通せんとする釜谷鉄道の急設期成同盟会は、愈々三村一九部落村民の調印を終わり」「速成請願書」が「在京中の松田令司氏に発送致した」ことを伝えている。