大間鉄道敷設運動は、大湊軽便線開通後の大正末期から下北地域で盛んに行われ、当時の地域の新聞にはその運動を紹介する記事が掲載されているが(『大間町史』)、昭和に入ると函館を巻き込んだ運動へと展開していく。
昭和七年十月に「北海道函館港と本州との最近連絡地点たる青森県下北郡大間港迄東北本線大湊鉄道線を田名部より延長敷設速成せられんことを望む」として関係当局に出された大間鉄道の敷設速成請願には、青森県下北郡の関係町村長のほか函館市長坂本森一、函館商工会議所会頭坂本作平らが署名している(昭和七年十月二十四日付「函新」)。
また、釜谷、大間間連絡航路開設を前提とした大間鉄道速成運動では、大間村付近の町村が函館市に対して協力を要請し(昭和九年五月十日付「函新」)、昭和十一年八月には大間鉄道と大間港の国による修築速成に関する請願でも函館市長、函館市議会議長、商工会議所会頭に対して共願調印を求めている(昭和十一年八月二十三日付「函日」)。