第四紀になって、とりわけ後半に地球が約一〇万年の周期で寒暖を繰り返すようになって以来、北アメリカ、北ヨーロッパでは大陸氷床が大きく成長したり、小さくなったりするようになった(鎮西清高、1987)。このことは、一見、道南や函館の地には縁遠いことと思ってしまうが、大陸氷床の消長とともに、地球上の海面は、百数十メートルもの上下を繰り返したということになれば、話は違う。今からたった約二万年前をとっても函館のまわりに海はなく、津軽海峡の幅もごく狭かったという事実(図2・1・3)を紹介するだけで、いかに大きな環境変化があったかわかるであろう。また、海の波はわたしたちの想像以上に陸地を削り、平坦な土地(波食台)を作る。そこが隆起すれば、海岸段丘と呼ばれるものになる。海面がある周期で昇降し、一方で陸地の方が隆起を継続していたとすれば、何段もの海岸段丘が陸地に刻み込まれることになる。道南の地は、まさしくこの条件にかなった土地なのである。鉄道や道路は海際を走ることが多く、海岸段丘の存在を目にしにくいが、江差の市街地の大部分、松前の城天守閣一帯、男子トラピスト修道院の広い敷地、函館の本町、日吉町、上野町、そして銭亀沢の赤坂町、石倉町などの載る台地など、いずれもが海岸段丘である。山がちな道南の地において、農地、公園、宅地ほか人びとのおもな生活の場となっているのが、この地形である。本節が、海岸段丘を中心に地形環境変遷を述べようとしているのも、このためである。
大野町向野で出現した逆断層変位
砂利層がZ字型に食い違っている様子を見ることができる。この逆断層は、あるいは約千年前に降灰した地表近くの火山灰層をもずらしているかも知れない。とすれば、それ以後の活動を示唆する。
図2・1・3 津軽海峡の陸棚(日本第四紀学会編(1987):『日本第四紀地図 A東北日本』を改変)
最終氷期に津軽海峡の海域がどうであったかを伺える地図である。陸棚前緑の深度が、現海水面下110~130メートルにあり、当時の海面がこの付近にあったとみることができる。すると、当時の海域は、きわめて狭く亀田半島と下北半島の間には、最小幅4キロメートル程度の水道が通っていたに過ぎないかも知れない。松前半島と津軽半島の間には、潮流による海釜が形成されていたり、地盤運動による変異の影響があって複雑で、日本海と海でつながっていたかどうか微妙なところである。