北洋漁業への出稼ぎ

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 戦後の北洋鮭・鱒漁業は、戦前の陸上でおこなわれた露領漁業とは異なり、洋上の母船と独航船が一体となる船団操業に変化した。すなわち、独航船が鮭・鱒を漁獲し、母船がその漁獲物を処理加工することになった。そこで北洋漁業従事者といっても、独航船乗組員と母船作業員に分けられ、漁獲作業に当たる独航船乗組員は、東北、北陸各地の機船底曳漁業基地の漁船乗組員で占められたのに対し、漁船漁業の経験をもたないこの村の漁民は、全員が母船作業員として漁獲物の選別処理作業に従事した。
 これら母船作業員の出身地は、昭和三十三年では北海道が最も多く四四・三パーセント、次いで秋田一七・六パーセント、青森一六・〇パーセント、岩手一三・四パーセントなどと、かつての春鰊出稼ぎ地帯の出身者が多い(前出「母船作業員の母村」、海運局「乗船者名簿」)。北海道では道南漁村、岩手は農山村、秋田は男鹿地方の漁村、青森は三戸郡の農村、八戸市の出身者で、母船作業員の出身地は、東北、北海道の限られた地域に集中していた。たとえば、前掲表3・1・17で、昭和三十三年の銭亀沢村の北洋への出稼ぎ件数は三六二であり、同年の道内出身者が一四九一であったから、その二四パーセントが銭亀沢村の出身者ということになる。北洋出稼者の出身地が、道南、東北三県に集中する状況は、戦前の露領漁業にもみられた傾向である。
 このように、出稼者の出身地が、戦前戦後を通じて一致していることは、戦後母船会社が、戦前の出稼ぎ関係者をたどって作業員を募集したことが一因として挙げられようが、基本的には、これらの地帯が戦後においても就労機会の確保と経済生活を維持する上で、出稼ぎ労働を不可欠とする農漁村として存在したことにあろう。