戦後母船作業員の雇用は、法的には船員職業安定法に基づき、船員職業安定所を通じて公募されることになっていた。しかし、実際は、ほとんどが母船会社に関係する募集人の縁故採用の方法がとられていた。
募集方法には幾つかの形があったが、代表的なものとしては、戦前の北洋漁業の経験者である役付きの作業員(作業長、組長など)が斡旋する場合や、村長、漁業協同組合長といった村内の有力者が、事実上の募集人として作業員の採用に当たる場合などがあった。もっとも母船会社では、公共職業安定所の協力団体で、町村内の出稼ぎ業務を扱う出稼援護相談所を通じて公募する形をとっていた。しかし実際には前述の方法をとる例が多かったようである。
二、三の事例を挙げると、最も一般的な例は、作業長などの役付作業員の斡旋によるものである。たとえば、昭和三十三年のある母船会社の事例では、役付作業員が斡旋した作業員は二二五名で、全体の四割、また町村の有力者とみられる出稼組合長(多くは町村長)が世話した者は一一〇名で、両者を合わせると六割近くに達している。そのほかもほとんどが何らかの縁故者であった。
銭亀沢村の場合も同様の方法がとられていたが、村の出稼援護相談所の例を挙げておく。相談所は、昭和二十九年、道南漁村の凶漁対策の一貫として、出稼者の就労斡旋、出稼者の保護、出稼ぎ業務の円滑化を図る目的で設立された。相談所は所長一名、理事一〇名、事務局二名で構成され、所長は村長、理事は一〇名のうち七名が船主層、三名が釣子層(旧鰊場船頭)から選出されていた。実際の相談所の運営は、村内の有力者の意向を反映していたことは想像に難くないのである。
このように、母船作業員の雇用においては、村内の母船会社とかかわりの深い役付作業員、あるいは有力者を媒介にした地縁血縁関係を基礎におこなわれていたが、斡旋人を中心とする村内の人間関係が、母船上の労働関係にも多大の影響を与えていたようである。