イカ釣り漁船の動力化

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 小野太佐蔵(明治四十二年生)によれば一七、八歳から二二、三歳までカワサキに乗った後、機械船に変わったという。この辺の機械船は能登から購入した。これは親方が購入し、後には共同船を地元で造船した。最初の機械船は焼き玉エンジンが使われた。
 戦後はイワシ漁がだめになったため、イカ釣りが盛んになり、急速に動力船に変わった。機械船に変わってから、フナブ(船歩)もカワサキセン時代の一割から三割ないし四割に引きあげられた。銭亀沢で、機械船のイカツケブネが七〇隻あった。これらの中には、漁師が共同で融資を受けて建造する共同船が多くあり、小野太左蔵も昭和二十六、七年に、一七人で共同で仕込み親方(地元)から金を借り(木村石次郎)、共同船「共宝丸」を作った。洋式構造の一六トン焼き玉ダブル機関のイカ釣り船が八〇万円で造船できたので、一人五万円の出資で共同船の船主となることができた。この船で恵山方面に出漁し、連日の豊漁で、当時スルメ一俵五〇〇〇円の値が付いていたこともあり、借り入れた借金の返済は比較的容易であったという。船は前浜沖に係留し、艀でイカを陸に運んだ。天候によっては船を函館に入港させ、函館から車で運んで加工したことも多かった。
 機械船の漁場も恵山方面が主漁場であった。マスは最初はくじ引きをおこない、二回目からはトモからオモテに向かって一つずつ千鳥にあがっていった。船頭、機関士はブリッジのそばから動かなかった。一人二〇〇〇杯から二五〇〇杯のイカを釣り、とったイカは網フクロに詰めてデッキにおいた。
 動力船の場合は、ハネゴでとるときにはトモ(艫)が良かった。イカ釣りに動力を利用したドラムを使用する前は、昔ながらのトンボとハネゴを使った。トンボやハネゴのダイ、タケは船にあわせて長さを決めイカ針屋で購入した。ハネゴの操作は難しいもので、最初の人は草履をイカに見立てて練習した。
 動力船の燃料費などの経費はカブを持っている者の頭割りとし、とったイカは全部自分のものとなった。「便船もらい」(臨時の乗組員・乗り子のこと)があったときには便船分の歩はカブを持っている者の頭割りの収入となった。船頭、機関士は歩なしなので、自分の代わりを一人を乗せることができた。