別家

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 銭亀沢地区では分家のことを別家(べっけ)と呼んでいる。戦前には、地区内では鰯の親方の家か有力な仲買ぐらいの限られた家しか、財産の分与や新築家屋の提供など経済的援助を与えて分家させることはできなかった。一般の漁民の次男以下は、結婚を一つの契機として小屋や物置をかりて分家し、その後各自が自力で家を建てることが一般的であった。したがって分家の本家に対する経済的な独立性は高かった。
 同姓の人が、地区内に多いので、屋号をもちいている。屋号を聞けば、同族関係が確定できる。三人兄弟の三番めであった佐藤藤吉(古川町)の例を、みてみよう。藤吉の長兄が本家を継ぎ、〓(ヤマヨ)を名乗った。次兄は、三〇歳くらいで別家をつくり、〓(イレヨ)と名乗った。本人は三一歳で自力で別家を構え、〓(ヤマキチ)を名乗った。すなわち次男は本家から「ヨ」を、三男は本家から「ヤマ」の部分を受け継ぎ、自らの屋号を作っている。
 古川町の鰯の親方の家である木村マキの分家を例にとってみたい。木村家は、巳之松の代に鰯の網元として明治末から昭和の中頃まで発展した家である。木村家では、男子はすべて土地付きの家を町内に建ててもらい分家し、別家創設後は、病気などの場合を除けば、経済的に自立していた。一方、分家のうち、弟が長兄の鰯漁を見回りなどで手伝っていたが、船頭、支配人や帳場は、もともとは親戚ではない者が役割分担をしており、同家の鰯漁は、同族経営とはいえなかった。
 一般漁民層では、本家と別家の間での経済的な協力関係は少なかったが、本家や別家が中古の磯舟を購入したり、修理をおこなう時には、別家に助けを求めることがあった。また、お金が必要な時や病人が出た時に助け合うことがあった。
 また、古川町には、木村マキ、川村マキと、松田マキという三つの同族集団があり、村会議員の選出や漁業協同組合役員の選出の母体となっていて、政治的な機能を果たしていた。