昭和期に入り、銭亀沢にも二つの「新宗教」が受容され定着されたことは、日中戦争の拡大という軍国化の営みと決して無縁ではない。銭亀沢の中にも、軍事化の波は押し寄せていたのである。その様子を、当時の銭亀沢高等小学校の「綴り方」文集である『赤い夕日』と『黒岩』の中に検証してみることにしよう。そこには、児童生徒であるがゆえの、戦争や神社(神様)に対する率直で赤裸々な思いが綴られている。
まず、高等科一年の井口博子は、「事変について」と題して、戦争の苦難を次のように記している。
(前略)此の村からも召集を受けて随分行きました。婦人会は千人針をしてゐます。私の家へも来ました。私は寅年でないので一つだけ結びました。村では毎月十五銭づヽ集めて居ます。此のお金は、出征した家へ分けて上げるのださうです。此の間慰問文を学校で送りました。学校では国民精神総動員週間を実行したり、納税奉公週間をしたりして居ます。私達は一銭のお金でも無駄使ひせず、貯金したりして、寒い思ひをして居る兵隊さんに上げたいです。私達はいよいよ心を固くして、兵隊さんの行つた後をきちんと守るやうにしませう。
(『黒岩』第六号、昭和十三年)
戦地だけでなく、銃後にあっても、「御国の為、天皇陛下の御為、一生懸命」と井口は綴っている。
世をあげて、このように異常状況であればあるだけ、人は「人知」を超えたものに依存する。神社を中心とする絶対的な「神様」に対する依頼・期待観は、なお一層拡大した。
また豊漁があれば、児童・生徒だけでなく、大人たちも神に感謝することを忘れなかった。日頃のこのような神に対する敬虔な心は、神社にたたずみ参拝するとき、なお一層慎み深いものとなる。このことを、次の綴り方は実によく示している。
私達は拝んだ後で「果して神様は私達の願ひをお聞き届けて下さるであらうか。」という疑ひは一寸も起きません。此のせまい疑ひに満ち満ちた人間でも神様の前に立って祈る時、ひたすら神様を信じます。私達の願ひを聞いて、此の社殿から神様が現はれて、此の村を幸福にして下さるとは思ひませんが、祈つてゐる時のなごやかな心持、清らかな氣持は本当に大切なものです。かたじけなさに涙こぼれる此の感謝の念は、神様を考へて始めて味はるゝものであります。
ですから神様を信ずる事。けれども神様に我まゝを言はないで、村の発展も、我々が力の及ぶ限り働いて、さていよいよ発展し、生々と生活する楽しさ、此の楽しさが、即ち、神様の下されたものであると思ふのです。
(『赤い夕日』七号、昭和八年)