「観音講」は、昭和九年頃、婦人部会が湯川の禅寺・竜宮寺に講の神体の「魚籃観音」(丈三五センチメートル、地内では魚藍観音を訛って「魚ライ観音」と呼んでいるので以下これに従う)を依頼作製したのに始まる。当初、その神体を中宮亀吉宅に安置していたが、昭和四十年頃、志苔八幡神社の境内に遷して祭るようになって今に至る。この観音講の目的は、航行・家内安全と大漁祈願にあるが、第二次世界大戦時下は、小型の「魚ライ観音」を出征時に兵士に護身用に持たせたという。この「魚ライ観音講」は、当初、僧侶を招いて毎月十七日、交代により個人宅で実施していたが、戦争の激化にともない、年一回に改めた。講祭には、団子を供物にし、参詣者ひとりひとりに、それを「護符」としてふるまって今に至っている。
「明神講」は、「明けの明神」「暮れの明神」という縦二五センチメートル、幅一五センチメートルほどの一対の石像を作り、祭り出した。昭和五十年頃、根崎町の沢部さんの意を容れて、「魚ライ観音講」と合祀するようになって、今日に至るという。
この合祀した「観音・明神講」は、現在では、三月二日、余暇を利用して、銭亀沢八幡宮の神主の祈祷もとり入れて実施している。各自が差し出す玉串料は、一〇〇〇円から二〇〇〇円程度。