町内の「観音講」は遠く明治期より続き今日に至る。それは、「寺なき時代」の明治期、死者が出れば、「観音の家」と呼ばれる四、五軒で管理する家を中心にして、「南無大悲観音」の「観音講」を供養したのに始まる。死者が出ると、その屍(しかばね)を「観音の家」までカゴに入れてかついで、それから焼き場に向かったという。
古川町は昔から寺院不在の場所であったため、葬祭の際に、寺僧の代用として、この観音講が創始されたということは、ある意味で「観音講」本来の姿を伝えていたといえる。
その観音講も、寺僧の調達が可能となるに及んで、明治期以後はその内容も変化する。現代では、宗旨に関係なく、一月十七日、町会館を舞台に、六寺院から六人の僧侶が参り、僧侶の読経をうけたのち女性中心の講を催す。そこには、各自が持った供物がそなえられる。寺院がない時代に、その代用として始まった講の名残りであろうか、全員で約九メートルの数珠廻しを「南無観音自在菩薩」と唱えながら念ずる。会費は一人当たり一〇〇〇円、講の世話当番の人は、他にモチ米一升を差し出す。参詣者約一〇〇人の喜捨が使僧のお布施となる。講員も一月十七日になれば、講供養に向け、佐藤ハマ(現在の講頭、八〇歳)を中心に、仏像の手入れ仕事、炊事、雑役と大忙しという。