彼女は、銭亀沢(古川町)の網元(船主)の家の三人兄姉の末っ子として、激動の昭和戦前期に青春の真っただ中を過ごした。小さい頃は、家の手伝いをしながら学校に通い、家ではよく人形づくりをして遊んだそうである。人形づくりで自然に裁縫が得意になったともいう彼女は、物心ついた時からいつも曾祖母と一緒だった。祖母と母親は雨が降らない限り海岸や畑に出て働いていたため、家の中にはいなかったのである。昼飯を食べに一度帰ってはくるものの夕方まで戻らず、彼女の相手をしてくれたのは曾祖母だった。忙しい時には、母親が、「昼ご飯を食べる時間がもったいない」といっていたのを覚えているという。
昭和初期の漁村の女性たちがどれほど働いたのか、彼女の両親の生活について、その一年間をまとめてみた(表3・5・1)。その忙しさは一目瞭然である。表中の母親がおこなう仕事は、すべて自分の手・足だけが頼りの仕事である。畑と家の往復も、必ず物を背負って歩いたというから、大変な重労働であったことが十分にうかがえる。さらに、ここに示したものは日常的な家事以外の仕事であるから、外から帰ってくると、当然、子どもや舅・姑のために、食事の支度、掃除、洗濯などの家事もおこなうのである。また、父(夫)が出稼ぎから戻って家にいる時期も母親の忙しさは変わることはなく、父親の蒲鉾作りなどの仕事を自ら請け負ったり、父が漁にでる時には二時に起きて弁当を持たせたりと、かえって忙しい生活だったという。
現代の何不自由ない便利な生活からみると、あまりにも苛酷な日々を送っていたように思えるが、母親は、子どもに愚痴をこぼすこともなく、「男は鰯漁など夜の漁の時に寝ないから、(女が代わりに仕事をして)寝させてやるんだ」とさえ、いっていたという。夜中に目を覚ますたびに、寝ないで針仕事を続けている母親の姿を見て、「母さんはいつ寝るんだろう」と不思議に思ったのを覚えているという。
そんな母親の姿を見て育ったので、子どもながらも、「女は忙しいのが当たりまえだ」と、自然に思っていたそうである。そして、彼女白身も、小さい頃から家の手伝いをしながら学校に通う日々を過ごした。
表3・5・1 漁村の女性の仕事
コンブ干し作業をする女性・昭和44年(俵谷次男提供)