漁村の娘

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 当時の古川町の子どもたちは、義務教育が終わると家の手伝いをするのが大半だった。そんな中で、彼女自身が高等女学校へ興味を持ったこともあって、昭和十六(一九四一)年、函館大妻女子高等技芸学校(現在の函館大妻高等学校)に入学した。函館の学校へ進学することについて、母親は何もいわずに許してくれたという。彼女自身は進学できたことについて、「当時は何も思わなかったが、今考えると母親に大変な苦労をかけたと思う。大変感謝している」と話していた。学校では、和裁を中心に商業についても学んだが、戦時中ということもあって、英語だけは教えられなかったという。
 昭和十八年十二月、日高の浦河町の向別小学校内に開設された冬期間(一・二・三月)の青年学校へ、女子の裁縫教師として赴任した。遠いので両親は大反対だったが、日高の学校長からの説得があったり、さらに、大妻女学校では専攻科の卒業を間近にひかえた十二月に代用教員として働けば卒業を認める制度があったことなどもあって両親も承諾、十八年十二月、単身で日高へ向かった。当時は、日高に行くのに汽車で一三時間の長旅だった。戦争が激しくなって男性教員が不足していたこともあり、十九年の四月からは、臨時講師として、日高の浦河町の小学校で教えた。五年生を受け持った。当時の教師用の教科書には、「日本の国は、アメリカに矢を向けるように神様がつくってくれた形だと指導すること」と書いてあった。戦争のため、何の疑問も持たずに子どもたちに教えていたが、終戦を迎えた時、それまでのことを初めて疑問に思ったという。
 最初は冬の間だけという話だったが、結局日高で一年半を過ごした。一年半で帰郷することになったのは、兄の戦死が理由だった。兄の死がきっかけで、両親が、「子どもは手元においておきたい」という思いにかわったためである。その気持ちにこたえて、再び銭亀沢に戻ってきた。昭和二十年三月のことである。
 彼女が日高にいた頃、母親と一緒に畑に出て働いていた姉に、徴用がかけられ、十九年の八月から十月にかけて、古川町内の鉱山で働いたという。鉱山に徴用された女性は二〇人ほどで、毎朝六時半には家を出て、四〇分ほど歩いて鉱山に向かった。男性が切り出してベルトコンベアにのって流れてくる鉱石を、選別し、使えないものをトロッコにのせて捨てに行くのが、女性の主な作業だった。
 帰郷した後、彼女は教職にはつかずに漁業組合を総括する漁業会で事務をとることになった。男性が不足していたためわりあいに就職は楽だったという。
 戦時中の婦人会は「国防婦人会」であった。地区内の誰かが入隊するとなると、その家で激励会を開くために婦人会が中心となってその家に赴き、みんなで料理を作った。出発の時には、白い割烹着にたすきをつけて路上に並び、旗をふって送り出した。また戦死者の葬式の時は青年団も手伝いに行った。戦時中青年団に入団(学校を出るとすぐ入ることになっていた)、女子青年団員であった彼女は、水汲みや廃水捨てなどを担当したという。空襲もあったので、「アメリカにやられる前に」といって船などを壊したり、空襲に備えて水をためておいたりするのも婦人会の仕事であったという。
 苦しい戦争が終わりようやく地区の本業である漁業を再開することができるようになったので、漁業会の仕事に戻り、さらに青年団(女子青年団)の活動にも携わるようになった。女子青年団では、青年団とともに川濯神社のお祭りの一切を主催するため、その時期になると目のまわるような忙しさだった。当時は電話もなく、一軒一軒を訪ねて連絡しなければならず、古川町内を自転車で走り回ったという。
 その後、昭和二十二年に漁師の山鼻節郎と結婚。結婚してから九年ほどは、彼女の実家に同居した。夫が、父親の船にのり、一緒に出稼ぎにいったりしたためである(前掲表3・5・1参照)。両親と祖母、それに姉夫婦と姉夫婦の子ども四人という大所帯だった。結婚してからは、ホッケやイカの大漁が続き、彼女も母親と同じように、昼間は畑仕事、帰ってからは家事一般と、寝る間を惜しんで働いた。子どもができると、産まれる直前までは、ほかの女性と同じように畑に出て働いたが、産後しばらくの間は、子どもを育てることに専念するため一日中家にいた。しかし、家にいるとはいえ、産後の体でこの大所帯の家事一切を任されるため、決して楽ではなかった。姉にも子どもがいたので、一緒にお互いの子どもの面倒をみあったという。