生育と子どもの衣服

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 生後一年くらいまでの赤ん坊はイズコに入れて育てたが、誕生過ぎくらいからはおぶって仕事をした。
 おぶい紐は、古くなった男物の兵児帯や女物の半幅帯の帯芯を抜いて二つ折りにした物やサンジャク、オブリタナを使った。夏はおぶった上から子どもの着物を掛けたりしたが、寒くなるとカメノコ(亀の甲羅形で薄く綿を入れたもの)を掛けたり、袷や綿入れのネンネコ(ねんねこ半纏)を着てショールを上から掛けた。冬の寒い時にはさらに上から角巻きをした。ネンネコの丈は腰丈より少し長めであり、袖は大きめのものであった。布地は主に銘仙で、着物をたおしたものなどを使い、衿には黒い繻子を掛けた。たいていの人は普段着用とよそ行き用の二枚を持っていた。また、中には男物のネンネコを作って持っていた人もいた。
 明治、大正、昭和を通じて使われたネンネコも、昭和三十五、六年頃にママコートが流行りだすとしだいに使われなくなっていった。昭和五十年代後半くらいからは、子どもを後ろにおぶることをしなくなり、おぶい紐と共にママコートも姿を消していった。
 赤ん坊に使うシメシ(スミス‐おしめ)は、古くなった木綿地の単衣長着や丹前下などをたおして作った。シメシを丈夫にするために中に芯布を入れ、縦に一〇センチメートルくらいの間隔に剌した。昭和十年頃までは、おしめカバーのような物はあまりなく、ゴム合羽の様な材質の物に紐を付け、寝る時に腰巻きの様に巻いた。これをスミスカッパといった。
 就学前の子どもには男女とも、昭和三十年くらいまでは、着物を着せて育てることがあった。仕事が忙しくて付いていられないので用足しに便利な様に、パンツは履かせないでいた。寒いときは袖のある綿入れチャンチャンコなどを着せた。
 学童期の子どもの衣服は昭和初期頃まで和服形式であり、夏も冬も着物を着た。夏は男女共木綿の単衣で女は元禄袖、男がつっぽ袖であった。女の子はサンジャクを締めたりしたが男の子は着物の紐を締めるだけのこともあった。足は素足で藁草履や下駄を履いた。冬は平織や絣の木綿地の袷や綿入れの着物に袷の羽織、綿入れ袖ナシやチャンチャンコなどを着て、外出には上にマントなどを着た。着物の上には白ネルのベコ前掛け(両手を通す形で首から膝上までの長さ)や格子縞の前掛けをした。下着は晒の肌着に厚手のシャツやネルの下着、ネルのパンツやネルの裹付き股引を履いた。
 足には紐付き足袋やコハゼ付きの足袋を履き、下駄やゴザ付き下駄、毛付きのつま皮が付いた雪下駄、高足駄などを履いた。雪の深い時には藁の長靴(深ぐつ)を履く子もいた。
 昭和十年前後から通学には、洋服を着る子が出てきた。洋服着用は男子が女子より早く、冬は黒色コール天の学生服やセーター、ズボン、下着にはメリヤスのシャツや股引を、足には別珍などの足袋や毛糸や綿糸を解いて編んだ靴下にゴムの短靴や長靴、下駄などを履いた。夏は薄灰色の霜降り様の木綿の学生服を着た。布地や形で多少の変化はあるものの学生服は男子の通学服として現在も一部の中、高校生の制服として着用されている。
 女の子の洋服は、夏の簡単服が比較的早く(昭和初期)から着用されだしたが、冬は毛糸のセーターに襞(ひだ)スカートやモンベ、ズボンなどを履いた スカートの下は足首から下のない毛糸の靴下を履き、毛糸のソックスを履きかえる様にした。寒い時はこれらの上から綿入れ袖ナシやチャンチャンコなどを重ね着することもあった。雪が降るとラクダ色をしたラシャのマントに毛糸の首巻きや手袋をした。また、オーバーコートを着る人もいた。マントは昭和十五、六年頃までで戦後は見られなくなった。普段着は手作りの物が大半であり、兄弟の多い子はお下がりを着るのが当たり前であった。
 昭和十四、五年頃まで学校の卒業式や四大節(新年・紀元節・天長節・明治節)などの儀式には晴れ着を着た。女の子は花柄のメリンス地で作った袂(たもと)袖の着物や襲、羽織にエンジの袴をはきエンジのキヌテンや別珍の足袋に日和下駄を履いたが、天候により和服でも長靴を履くことがあった。また、洋服では、紺色のセーラー服に襞スカートや新しい服などを着た。男の子は着物や学生服を着た。校長先生は黒とグレーの縞のズボンに黒と白の縞のネクタイのモーニング、女の先生は黒の紋付に紺の袴姿であった。
 昭和初期から昭和十年代中頃までが、子どもたちの日常着が和服から洋服へと変わっていく過渡期であった。
 戦後の物資不足の時には、太い綿糸の縒(よ)りを解いて毛糸と混ぜてセーターを編んだ。また、昭和二十五、六年頃、毛糸不足から綿羊を育てることが流行った。三軒に一軒くらいの割りで育てており、食料不足を補うための畑の開墾と綿羊に草を食べさせるので、目に付く草は一本も無かったという笑い話のような話があるくらい、綿羊飼育は盛んだったようである。刈り取った毛は村外の加工屋に頼み毛糸や羊毛綿にした。

子どもの服装・昭和31年(井上清提供)