さて、着衣が洋装化される以前の昭和初期頃まで、この地方で一般に着用されていた仕事着は、二枚の布を糸でびっしりと細かく刺し込んで仕立てた刺子のドンジャに股引であった。この形態は東北地方の漁民の仕事着と共通しているが、銭亀沢地区の刺子は織り筋を三筋や四筋間隔で真っすぐに刺す刺し方であり、岩手県北部の仕事着に同様の刺し方(ベタ刺し)をしたものが若干みられるが、津軽のこぎんや南部の菱刺しなどの模様刺しとは異なるものである。手袋や前掛けなどは模様に刺す時もあったようだが、こぎんや菱刺しといったような明確なものはこの地区ではみられない。
刺し子は細かく刺すことにより布が厚く丈夫に補強され、保温性や耐久性が増すため刺子のドンジャは潮風や海水から身を守り、長持ちする仕事着として着用されてきたものであるが、寒さの厳しい冬には、さらに綿入れや毛皮など何枚もの衣類を重ね着して寒さを防ぐ工夫がなされたといわれる。
沖合いからの帰港を待つ家族たちの姿・昭和44年(俵谷次男提供)
表4・1・1 日常着・行事着・人生儀礼時の衣服(昭和初期~昭和20年代)
一方、和服形式が一般的であった当時の衣生活では、和服の直線裁ちの特長を生かし、古くなった着物を解いて洗い張りをして何度も縫い直した。布の傷みが同じ所に片寄らないように上下・左右を入れ換えたり、裏返して仕立て直す。袖口、裾、ウマノリなどに別布で覆輪を付けて擦り切れを防ぐとともに、損傷すると覆輪部分だけを取り替える。消耗しやすい衿、袖には身頃と別布を用い、消耗すると取り替えて仕立て直す。ドンジャの膝が擦り切れると細かくタンブ刺しをしたり、丈を短くして着用したが最後は雑巾にしたり、網を引くとき手に巻くツリカにして活用していた。
また、漁のない日や冬場、あるいは漁の合間を見つけては日常的におこなったというドンジャの刺し縫いや足袋の下刺し、テッケシ作りやタンブ刺しを初め、さまざまな方法で衣類の再利用を図り、無駄なく活用してきたというこの地区の衣生活は、耐寒性、機能性と共に経済性が重視されて営まれていたといえるであろう。
これら和服形式が中心だった衣生活も昭和十年前後には、活動性を重んじる男性の仕事着や子ども服から徐々に洋装化されるようになり、戦中、戦後にかけては、国民服、標準服制定などの影響も受け、婦人のウワッパリにモンペスタイルに代表されるように、和装から和洋折衷の装い、洋装へと人びとの衣生活は移行していった。
その後、昭和三十年前後のナイロンを初めとする各種化学繊維の出現と、高度経済成長による家庭生活全般に渡る大きな変化は、この地区の人びとの衣生活の有り様をも大きく変えた。漁撈に携わる時の仕事着も男女共に形に差のないゴム引きのカッパやカッパズボンに、保温性、伸縮性に優れた化学繊維のジャージーの上下、ヤッケやジャンパー、ズボン、ゴム手、かぶり物から履物に至るまで、豊富に出回る既製品を随時購入して着用するようになった。
さらに、都市の生活様式が日常生活に浸透するに従い、昭和四十年代以降は、この地区の衣生活も都市部と同様に営まれるようになり、現在に至っている。