[水]

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 昭和初期には、飲み水や洗濯用水などは井戸水を利用していた。「カツギ竿」の先に二個の桶を下げて汲んできた水は家の中の水ガメに貯めておいて用いた。水汲みは女たちの仕事とされていた。
 井戸水は滑車を利用した「ツルベ」で汲み上げた。水を入れる部分は木製の四角い桶で縦・横・高さ共二五センチメートルくらいであり、とても重かった。後にはいわゆる「ガッタンコ井戸」に変わった。「ガッタンコ井戸」は「ツルベ」に比べると水を汲み上げるのがとても楽であった。
 一年に一回井戸の掃除がおこなわれたが、その時は井戸を利用している家から手伝いが必ず出た。井戸掃除の時は危険なので子どもたちは寄せ付けなかった。井戸の底にはフナを住まわせていた。井戸の水をほとんど汲み上げた頃に、井戸の中に人が入ってそのフナをすくいあげ、井戸の底に戻すまで桶の中を泳がせておいたものであるが、子どもたちはそのフナを見て喜んだ。井戸の底のドロをかきとった後、また綺麗な水が湧き出すのである。
 その頃、山と山との間の沢から湧き出た水が流れている一メートル幅の川があったが、その川の水を飲み水に用いていた人たちもいた。後にその川をせき止めて大きなタンクに貯めて、浄化してから、村の各タンクに流し地域全体で使うようになった。昭和八年頃には、古川町には貯水用のタンクが五個あったという。その貯水用のタンクは縦三メートル、横と高さが二メートルくらいのコンクリート製のものであり、上にトタン屋根がかかっていた。タンクの掃除をする時に、その屋根をはずした。タンクの正面の、下から六〇センチメートルぐらいの所に蛇口がついており、そこから桶に水を流し入れた。
 母親は、夜寝る前に水ガメに一杯になるまで水汲みし、朝にはまた五回ぐらい水汲みをしたものである。
 のどが乾くと、シャク(ヒシャク)でカメから水を汲み、シャクからそのまま水を飲んだものである。シャクは四〇センチメートルから五〇センチメートルの木製の柄の先にアルマイト製の器やワッパがついたものである。
 風呂用水もガッタンコ井戸を家に作るまでは母親が担いで運んだ。冬期は納屋にある楕円形の据え風呂に入ったが、そのほかの季節にはイワシ釜を利用した「カマ湯っこ」に入った。それはイワシ釜の底に浮かないように鉄をつけた木製のサンを組んだものである。一回に四、五人が入り、燃料は浜に流れてきた雑木を風呂に入る人が各自で集めて持ってきたものである。風呂の水も入る人が足したりした。何軒もの人が利用したものである。
 「カマ湯っこ」には、サンを三角に組みムシロをかけただけの三角屋根がかかっていた。道路側と横側面がふさがれ、浜に面した側が開放された形になっていた。洗い場はサンを組んだだけの簡単なものであり、三角屋根の外に置かれていた。そんな状態だったから、ある時、外に着物が脱ぎ棄てられ、イワシ釜の風呂に人が浮かんでいるとの騒ぎがあったが、風呂の中の丸い顔はお月様が映っていたものであり、また、外に脱ぎ棄てられていた着物は誰かが忘れて帰ったものだった。

新湊町の簡易水道・昭和43年(俵谷次男提供)