餅つきは二十五日頃から三十日の間にする。大方は二十七日か二十八日にしていた。禁忌として日よりをしておこなわれた。「六」はろくでなし、「九」は苦につながり、ともに労苦で「ろくにち餅」といって縁起が悪いとされ、二十六日と二十九日の餅つきを避けてきた。また神様には「一夜餅をあげない」といって、三十一日の大晦日にも餅をつかないことにしていた。
餅つきのもち米は前夜からといでおき、当日は子どもたちがまだ眠っている夜中からもち米を蒸し始める。蒸しあがると、早朝の暗いうちから餅つきが始まり、太陽が昇るころまでにつき終わるようにしていた。
昭和五十年代前半までは、どの家でも餅つきの臼と杵を持っていたが、一軒だけでつくことはあまりなく、分家が本家に集まってついたり、隣り近所誘い合って、共同で餅つきをしていた。
餅をつくまでには、臼や杵がきれいにされていて、ストーブやそのまわりに塩をまいて清めてから始めた。蒸籠(せいろう)の上にも清めの塩を上げた。蒸しあがったもち米を臼に移す。つき手は一家の主人か若い男性で、よく臼の中のもち米をこねてからつき始める。「あいどり」も男か年輩の女性がした。つき終わると「のし板」に移す。ついた餅をのしたり、丸めるのは手慣れた女性の仕事とそれぞれの分担がきまっていた。
戦前は月のもの(生理期間中)があれば、不浄でもち米がよくふけないといわれ、蒸すときには若い女性に触れさせないようにしていたという。
当時の餅つきの蒸籠は、三蒸籠か四蒸籠を重ねた。一臼は約三升で、一臼めは「ボロが出る」といい、ついた餅をのし板の上で平らにのして、のし餅にした。次の日に長方形に切り、切り餅とよんだ。二臼めの臼は温まって軟らかくなめらかな餅ができあがるといわれ、二臼めは鏡餅・供え餅にした。三臼めからもち米と黒豆をいっしょに蒸してつく豆餅や、よもぎを入れた草餅、あん餅、きな粉餅、ごま餅などにした。餅をのしたり、さますのにのし板を二枚用意した。
当時餅つきのつく量は多く、一俵(六〇キロ)もつくのが普通であった。正月前の大きな仕事であり、楽しみであった餅つきも昭和五十年代になって、電動の餅つき機を使う家が多くなった。「あいどり」の必要もなくなり、ほとんどが主婦・女性の仕事となった。現在はつく量も少量で、三升か五升くらい。多くついても一斗(一五キロ)くらいしかつかない。ついた餅は、神棚・仏壇に供え、あとは雑煮にするのと「松の内」に食べる程度にしている。