通夜

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 この地域には葬儀のための互助組織である葬式組や講はみられず、死者が出ると隣近所の者たちが互いに手伝い合って葬儀を執行した。地区の世話役で年配の手慣れた者が役割分担を決めたりして葬儀の采配を振るった。戦時中は出征や出稼ぎで人手が足りず隣組の各戸から一人ずつ手伝い人をだすのが仕来りになっていたが戦後になるとその仕来りも薄れてしまった。
 晒に包んだ棺には寺から借りてきた金襴(きんらん)の布を掛け、ガンギ(祭壇)に安置した。ガンギは寺やハナヤ(葬儀屋)で用意してあり、床の間を背に板を渡してガンギを作った。その上に寺から借用の仏具などを置き供物や花を供えた。
 通夜は亡くなったその日か翌日におこなった。友引や何かの都合で通夜の日取りが遅くなるときは、親戚の者が集まって仮通夜(前通夜)をした。通夜は襖や障子を取り外し家具を片付けて広くした自宅で、夕方午後五時ないしは六時頃よりとりおこなわれた。菩提寺で葬儀をおこなったのは親方衆といわれた一部の人たちに限られていた。僧侶の読経が始まると祭壇に向かって硬貨を投げたり、回り焼香のときに焼香箱に硬貨を乗せたりする習慣は今もみられる。
 通夜の読経が終わった後も家族や近親者が夜通し線香と灯明をとぼして生前の死者を偲(しの)び成仏を祈った。ときには隣近所の人たちが集まって花札やホビキ・ホウビキ(宝引き)をやりながら過ごすこともままあったようだ。昭和四十年代になると、通夜の前に死者を荼毘に付すことが広くおこなわれるようになり、場所も自宅に代わって町会館や寺院を利用するようになった。会葬者も今では告別式にくらべ圧倒的に通夜の出席が多くなった。