5期区分のなかの後期と晩期が終末期にあたり、北海道で縄文文化が続いていた晩期末には、九州北部では弥生文化が始まっている。
約4千年前の縄文時代後期には、中部山岳地方や関東地方では中期の人口の10分の1に減少したのではないかと考えられるほど遺跡数が急減した。北海道でもこの頃になるとやはり遺跡数が減少しており、集落の構成がくずれいくつもの小さな集団となって分散していったらしい。このように人口が減少した要因の1つとして、中期末からの気候の冷涼化があげられている。気候の冷涼化によった生態系のちょっとした変化が、狩猟・漁労・採集を生業の基本とし、道具の改良や集団の組織化によって生産力を上昇させ、人口の増加と集落の定着化が進んだ縄文社会に大きな打撃を与えたと考えられる。後期から晩期の、千歳市美々4遺跡呑み口地点や小樽市忍路土場遺跡、札幌市N30遺跡、白老町社台遺跡、千歳市ママチ遺跡などのように、現在の河床面や地下水面よりも低い場所で発見される遺跡があり、気候の冷涼化で海水面が低下していたことを窺わせる。
後期の遺跡からは集団区画墓が出現するとともに、石棒、玉、装身具、祭祀用の注口や台がついた土器など、非実用的な遺物が急増することから、呪術に依存した集団の規制強化が行われ、さらには自然の再生産をこえた乱獲を回避していたと考えられている。