[北海道の開発]

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 大正期は、北海道第1期拓殖事業計画の実施時期である。
 この事業計画は、明治43年(1910年)から15か年(大正13年・1924年まで)の継続事業で、総額予算7,000万円、毎年250万円の定額支出と本道での政府歳入増加額を加え、単年度500万円の予算を投じるという膨大な開発計画であった。
 そのねらいは、「殖民の増加を図って産業の発達を促進する」ことにあり、そのためにまず、「道路橋梁の整備建設・土地改良・河川、港湾の修築」など、拓殖事業の進展に力を注ぐための、いわゆるインフラの整備にあった。
 その結果、北海道の開発は全道に及び原野や原始林が切り拓かれて耕地・牧場が広がった。それにともない農業生産高も飛躍的に増大した。一方、本道の基幹産業であった漁業は沿岸から沖合漁業へと進展を見せ、水産加工も工業の発達と相補(あいま)って目覚ましい発展をとげた。また、最も遅れていた工業については、資源の伴う製紙・合板・製酪・製糖(ビート)・あるいは製罐(水産加工)、ゴムなどの工業が各地で盛んになった。さらに鉱業(硫黄・石炭等)についても大資本の参入により生産高が飛躍的に伸びた。
 そして、これら諸産業の発達とともに道路・鉄道・航路・港湾、また、通信・情報、文化などの面でも開拓使時代とは隔世の感を呈するようになった。札幌・函館・小樽・旭川・室蘭・釧路に市制が施行されたのも大正11年(1922年)である。
 下の表は大正期における北海道産業の発展を示す1つの資料である。

『北海道の産業発展の状況』 新考北海道史より

 これらの産業の飛躍的発展は、第1次世界大戦でヨーロッパが戦場になったための特需に端を発しており、戦争が落ち着く大正10年代に入るとその反動的不景気が我が国を襲う。(先に記したが)さらに、それに追い討ちをかけるように大正12年(1923)関東大震災が発生、首都圏等に未曾有の被害を及ぼし政府機能は一時的にせよ麻痺状態に陥る。その余波(経済面・行政面)は全国に及び当然のごとく本道もその波を被ることとなる。