1、昭和という時代

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 1926年12月25日早暁、大正天皇が葉山御用邸で崩御(ほうぎょ)された。
 即日、摂政宮裕仁親王(昭和天皇)が践祚(せんそ)(皇位継承者が天皇の位を受け継ぐ事)され、翌26日元号を昭和とし、大正15年12月25日を昭和元年12月25日とすることが発表された。この『昭和』という元号は、五経の一、政治史・政教を記した中国最古の経典「書経(しょきょう)」のなかの『堯典(ぎょうてん)』にある「百姓(ひゃくせい)昭明 万邦協和」という言葉が典拠で、政府は、これに「君民一致、世界平和」を意味するという注釈をつけた。平たくいえば、国民全体に陽がよくあたり、国々が仲よくしていくということだと解釈された。
 大正時代はわずか15年であり、歴史上の大変革を遂げた明治時代と対照し、影の薄い時代であったとの思いを抱く人は多いだろう。確かに、大正の後半−関東大震災以降のナショナリズムの台頭による反動的な動き−明るい時代とは言えないが、明治の、富国強兵を旗印とした新政府主導の激動の改革に対し、そのアンチテーゼとしての大正デモクラシーは、政治を中心に学問や文化の民主化運動に発展しつつあった。
 郷土の政治・行政もこの時代、組織的にも質的にも充実したことは、前章に記述したとおりである。また、東京以北最大の都市である函館は、中央の情報がいち早く入ってきており郷土もまた、その影響を受けたと思われる。
 昭和は、特に初めの20年は、まさに暗黒の時代であり動乱の時代であった。それは、恐慌に始まり、内(うち)に外(そと)に社会不安が日増しに大きくなり、現実に弾圧・暗殺・陰謀・クーデターが繰り返され、ファシズムの暗雲がしだいに日本中を覆っていった時代である。そして、戦争がアジアの一角からも始まり、しだいに全人類を巻き込んでいった時代でもあった。皮肉にも、昭和の元号の意味するところと、歴史的な現実が見事に逆転したといえよう。一部の財閥や軍閥を除けば、万民が塗炭の苦しみを舐め、万邦が血で血を洗う戦いを繰り返し、人類がかつて経験したことのない原子爆弾の投下により一挙に数10万人の貴い人命を失われたのが昭和前半期であった。
 この時代の歴史を書いた後の外務大臣重光葵(しげみつまもる)は、その本に『昭和の動乱』とつけた。また、外交官森島守人は、この時代を描き『陰謀・暗殺・軍刀』という名の本を著した。