3、戦前・戦時下の道政

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 先述のように、国内では恐慌・不景気・失業者があふれ、国外では昭和6年、満洲事変の勃発、同7年満洲国建国、8年国際連盟からの脱退・孤立化、そして、軍部ファシズムが大陸に活路を求め戦争の道を走り、非合法化した労働運動や農民運動が先鋭化していく。道内は、これに追い討ちをかけるように冷害・凶作に見舞われる。
 このような情勢の中で、北海道庁は道民救済の応急措置を行うと共に、同7年12月『農山漁村経済更生計画に関する件』などの布達を出し、道民に生活引締めの努力を呼びかけたが具体的な施策はなく、政府の非常時に当たっての強力な行政方針を受け、「国民の精神を高揚する運動(ナショナリズムの高揚)・皇室の尊崇・青年層の教化」等の精神面の強化を計る行政指導が主となった。さらに、道庁はこの徹底を図るために組織機構の改編を行い職員の増加を図った。昭和6年から12年までの間に職員数が50%増になり人権費が道予算を圧迫した。市町村もこれに基づいて職員増と組織改編(後述)を行っている。
 満洲事変以降の経済状況に対する、道庁の効果的な対策がないまま、昭和9年、道内は再び冷害・凶作に襲われ不景気風はますます吹き荒れた。そして、昭和12年7月、日華事変が勃発するや戦時色は一挙に強まり、政府・道庁は勿論、市町村にいたるまで、非常時経済政策がとられることになり、人々は「贅沢は敵だ」を合い言葉に、窮乏生活を強いられることになった。北海道長官は7月、この情勢下を踏まえ、職員に『招集・徴発事務の遂行、銃後の後援の万全、防空態勢と治安維持の強化』を求める訓示を与え、9月には道民に次のような告諭を発した。
 以下、告諭全文(新北海道史第5巻より)。
 
本道は北門の鎖鑰(さやく)皇国資源の宝庫として国策上重大な使命を有し、而も開道以来皇恩に浴すること頗(すこぶ)る厚し。道民たるもの深く思を此に致し、聖旨を奉体し告諭の精神に遵(したが)ひ、克く皇軍出師(すいし)の大義を明らかにし、出でては義勇国難に赴き、入りては自主本道の防護に任じ、愈々銃後の守りを固くし、出征将兵の慰藉激励と遺家族の擁護に万全を期し、更に報国の至誠を、教育産業金融経済等万般に具現し、克く国力の根基を培ひて現在竝に将来に備え、以て国民精神総動員の実を挙ぐるは刻下道民が君国に報ずる要道なり。
 
 告諭に述ベられているように、日華事変後、国民総動員運動が強く叫ばれ「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」などの標語で国民の精神統一が図られ、更に、非常時財政経済に対する挙国的協力が求められた。そして、市町村では軍事協力のための在郷軍人会・愛国婦人会・国防婦人会・青年団・少年団などが組織され強化された。
 枢密院議長の近衛文麿は、(これらの組織をすべて包み込み)「内外の未曾有の難局に対処するため強力な政治体制・新体制を確立しなければならない」と提言。政界・言論界・右翼・軍部・政党は相次いでこれを支持し、そして誕生したのが大政翼賛会(たいせいよくさんかい)である。