4、極東国際軍事裁判

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 1945年(昭和20年)9月2日、戦艦ミズリー号の艦上で降伏文書に調印後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)がただちに発した命令が陸海軍の解体と軍需工場の終止である。さらに、11日には戦争犯罪容疑者の逮捕命令を発した。
 そして、戦前・戦中の日本の指導者が平和と人道に対する罪を犯したとして、多数逮捕(国内だけで1,000名以上)され、うち、A級戦争犯罪人28人がアメリカなど11カ国代表からなる『極東国際軍事裁判』でさばかれた。裁判は1946年(昭和21年)5月から始まり1948年(昭和23年)11月に、東条英機元首相・広田弘毅元首相ら7名が絞首刑を宣告され、その年に処刑されたほか、木戸孝一元内大臣、平沼騏一郎元首相など、途中病死または病気免訴を除き、全員に終身刑または有期の禁固刑(東郷20年・重光7年)の判決が下された。
 この極東国際軍事裁判は、ニュルンベルク裁判とともに戦争犯罪の概念に全く新たな内容を付加した裁判として、国際法上きわめて大きな意義をもつものとなった。従来、戦争犯罪とは「戦争法規に違反する行為であって、その行為者を相手の交戦国が捕らえた時、これを処罰するもの」とされ、東京裁判においてもBC級戦犯容疑者に関しては、捕虜虐待など戦争法規違反としてのみ処罰された。しかし、ニュルンベルクと東京裁判(A級)では、「平和・人道に対する罪」が新しく設けられ戦争指導者が断罪されたのであった。しかも極東国際軍事裁判は、判事団・検事団は戦勝国のみによって占められため、勝者の敗者に対する報復裁判であるとの批判もあった。インドのパール判事は、被告全員を無罪とする少数意見を述べて注目を集めた。また、日本国民がこの裁判に加わらなかったことは、日本人自らの手による戦争責任の追究を不徹底なものとすることにもなった。
 なお、連合国のあいだには天皇を戦犯として起訴しようとする動きもあったが、アメリカ政府とGHQは、占領政策を円滑にすすめるため、日本の国民感情を考慮してそれを避けたのである。