[講和問題の展開]

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 日本の占領には期限の定めがなかった。ポツダム宣言第12項に「前記諸目的ガ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ連合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルベシ」とあるだけであった。
 この項を適用するならば、占領後4年たった昭和24年(1949年)には、非軍事化また民主化という占領目的はほぼ達成され、自由で責任ある政府も吉田保守政権のもとに樹立されていたわけで、占領軍の撤退は行われ、講和が結ばれるべきであったが、事実は同26年(1951年)9月まで遅延となった。
 これは主として連合国間、特に冷戦状態にあった米ソ両国政府の対日講和方式のくいちがいのためであった。さらにアジアの情勢をみれば、23~24年(1948~49年)にかけて中国共産党による中国革命の進展に影響され、国際情勢の不安定要因が増大していた。したがってアメリカはアジアにおける日本の地位を重要とみなし、講和問題を予想より2年あまりも遅らせてしまったのである。
 この政策のはじまりは、22年(1947年)からのことであるが、25年(1950年)6月に勃発した朝鮮戦争(後述)を契機に、はっきりと実行されたのが、同年10月、特別警察予備隊−後の自衛隊の創設にはじまる。その後再軍備の要求が日本国民に対して矢継ぎ早になされた。GHQ最高司令官マッカーサー元帥が、再軍備のために憲法改正を国民に示唆しても吉田内閣・政府、政党、国民も動かなかった。反戦ムードにあった国民の中に少なくない反米気分が高まりはじめたのもこの頃である。講和については万事受け身の日本政府にも用意はできていなかったし、政府はむしろ当時の国際情勢・政情からみて早期講和を不利と考えていた。
 対日講和問題の具体的な展開は、昭和24年(1949年)9月、トルーマン大統領がワシントンにて米英外相会議を開催し、ソ連の反対と対日戦参加国の不確定な態度を承知のうえで、対日講和会議の方針を議したことに始まる。この時の国際情勢をみれば、アメリカは北大西洋条約機構(NATO)の構想によるソ連封じ込め政策をとっており、東南アジアにおいてもポイント・フォア計画によって、冷戦の方針をほぼ固めてきていた。こうした最中、11月1日、米国務省より対日講和条約案起草準備中と発表された。
 この方針に基づいて、昭和25年(1950年)春、トルーマン大統領は共和党のダレスを国務省の対日講和問題顧問に採用した。ダレス顧問が特命をおびて第1回目の来日をしたのが同年6月、朝鮮戦争勃発直前であった。その目的は日本の実情を視察し、GHQおよび日本政府の意見を聴取するとともに、アジア、特に朝鮮の状況を観察するためであった。平和的・理想主義的論文を過去に発表し、少なくとも、そう認識されていたダレスが「とじまり論」で、とじまりのない日本に対して再軍備をほのめかし、日本の世論を驚かせたのもこの時である。それだけ、アメリカは東西の冷戦構造を緊迫した情勢として分析し日本の東陣営に対する存在を重要視していたのであろう。