ダレスの第1回目の対日講和外交が終るのを待っていたかのように、冷戦構造の中でもっとも懸念されていた南北朝鮮の衝突・朝鮮戦争が勃発した。
昭和25年(1950年)6月25日午前4時頃、突如として、朝鮮を南北に分割している北緯38度線の全線にわたって戦闘が始まった。北朝鮮軍は11カ所で38度線の境界を突破して南へ向かって進撃を開始、南朝鮮の東海岸にも上陸、京城(ソウル)郊外にある飛行場に銃爆撃を加えてきた。これに対して、韓国側は直ちに北朝鮮の侵略を国連に報告して援助を求めた。一方、北朝鮮は放送を通し、午前11時韓国に対し正式に宣戦を布告、午後1時30分には、韓国軍が夜中(24~25日にかけてということか)に38度線を越え北朝鮮に侵入したと報じた。そして、翌26日午前には、北朝鮮の金日成(キムイルソン)首席が放送を通して「責任は南朝鮮が負わねばならない」と述べた。
戦いは3年間におよんだ。南にはアメリカ軍を中心とする国連軍が、北には中国人民義勇軍が加わり激しい攻防戦がくりかえされたが、昭和28年(1953年)7月、板門店で休戦協定が結ばれた。
この戦争の直後(8月10日)、日本ではGHQの指示により警察予備隊(のちの自衛隊)が発足、自衛力の強化がはかられた。また、多くの共産主義者が官公庁や言論機関から追放された(レッドパージ)。朝鮮戦争で国連軍の補給基地となった日本は、戦争による需要・特需が増え、昭和26年(1951年)の鉱工業生産は戦前の平均水準に回復し、以降、鉱工業・経済は順調な発展を見せる。