[サンフランシスコ平和条約と日米安全保障条約]

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 2度目のダレス来訪は半年後の昭和26年1月下旬、朝鮮戦争たけなわの時、それも、南下した北朝鮮軍に対して国連軍の反撃が開始された時であった。
 ダレスはソ連の態度を無視して対日講和促進の腹を決め、日本政府と講和条件について折衝を行った。この時、政府も、また、経済同友会などの経済団体もそれぞれ意見書を提出して、ダレスの対日講和の構想に賛意を示した。朝鮮戦争勃発後の米国の対日関心は、軍備のない日本が独立国となった後、いかに自国・米国を指導力とする自由主義世界へ寄与・貢献できるのか、また、動乱のアジアにおいて軍備のない自主国家をいかに維持するか、という矛盾にみちた問題の解決方向を見出だすことにあった。
 その方向を示したのが、ダレスが日本政府との会談に際し明らかにした「講和7原則」である。