(1)講和7原則

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 それは、(1)参加国の資格、(2)国際連合への加盟、(3)領土問題の処置、(4)独立後の日本の安全保障、(5)通商条約の締結並びに多数国の同条約への加入、(6)日本への請求権の放棄、(7)請求権または賠償の紛争についての国際司法裁判所の処理などの諸事項に関するもので、日本政府の予期していたものよりはるかに寛大であった。これに対する日本側の要望は、(1)占領中の改革を平和条約で恒久化しないこと、(2)賠償については日本に外貨負担を課さぬため、役務賠償を原則とすること、(3)戦犯については、これ以上、新たな訴追を行わないこと、などであった。
 そして、この7原則の線にそって、対日講和条約と日米安保条約の2本立てからなる、サンフランシスコ体制の骨子ができあがった。
 ダレスは、その後、フィリピンや英連邦諸国の厳しい対日見解の調整につとめ、ソ連その他(東側諸国)の反対意見にもかかわらず対日講和条約の草案をまとめ、トルーマン大統領の賛成をえて、3カ月後の26年4月16日に来日し、この草案を示した。
 日本政府も、与党の自由党や民主党などの保守・中道政党や財界の支持を得て、全面講和を非とし、多数講和(政府は単独講和を締結国の数から、こう呼んだ)を是とする吉田首相の意向を伝える。
 なお、社会党、日本共産党などの革新政党、日本労働組合総評議会(総評)などの労働組合、文化人グループなどは非武装、中立の立場から、例え時間がかかっても社会主義諸国も含め全面講和を行うべきと主張した。(1950年9月、朝日新聞実施の世論調査では、全面講和支持21.4%、単独講和支持45.6%、わからない33.0%となっている)
 同年5月9日、吉田首相はダレスとの会談の結果を国会に報告、その際に「ダレス特使の前回日本訪問以来、わが国の一般情勢、特に国民の間に早期講和に対する強い希望が起こってきたこと、また、米国政府の寛大にして公正なる講和方針に感謝している」とさえ付言している。
 このような経過をたどって、1951年(昭和26年)9月4日のサンフランシスコ会議開催の運びとなる。そして、今日もなお日本がその支配下から完全に脱却していないサンフランシスコ体制(講和条約)が成立したのである。