明治政府から開拓許可を受けた東本願寺は総力を上げて事に当たることになったが、東本願寺の北海道開拓はこれが初めてではなかった。
〈桔梗野の開発〉 安政6年(1859年)東本願寺は幕府に願出、「東本願寺開発場」として“桔梗野”(現函館市桔梗町)の開発を行っている。ここは別称「六条郷安寧村」と呼ばれ、農場開発・附属施設として用水路・道路(本願寺道路と呼ばれた)の大規模な開発であった。当時の東本願寺21世厳如上人が責任者となり、能登(石川県)・秋田・南部等の信徒19戸が入殖。現在の桔梗駅付近から軍川村との境付近まで、間口約2.7キロメートル、奥行凡20キロメートルの農地開拓を行っている。入殖者は、当時、現在の比遅里神社付近に居住し、本山より日用品・農具・耕作牛馬等支給され、且つ3ケ年間の食料も支給されていたという。
〈用水路の建設〉 入殖者はこの農場の付属施設として、飲料水・農業用水確保を目的として用水路建設を行った。現七飯町との境界付近の「ニンニク沢(念仏沢)」を水源地とし、延長約6キロメートル、幅1.5メートル・深さ0.9メートルのもので「本願寺用水路」と呼ばれた。又、これに沿って農道も開削された。
〈道路の建設〉 文久元年(1861年)東本願寺信徒等は、この桔梗野と内地からの船着場である海岸部・七重浜との交通の便を図る為に道路の開削も行っており、土地の人々はこの道路を「本願寺道路」と呼んだ。この道は延長約1.6キロメートル、幅9メートル、両側に幅1.8メートル、深さ0.9メートルの側溝を設け、さらに両側に柳の木を1,500本植樹した堂々たる道路であった。
これら幕末に東本願寺が開発・建設した桔梗野の農場、付属施設、本願寺道路は明治4年に維新政府・国家に返上(上知)された。