郷土の学校創立以前、教育の場で用いられていた教科書・読本類については第1節に述べたが、公立学校の開校後の教科書はどのようなものが使用されたのか、教科書採択の制度・編集の方針・教科書の特色等について、その概略を述べたい。
最初の教科書 日本で厳密な意味で教科書が作られたのは、明治5年(1872)の『学制』制定以後のことで、当時は主として欧米の翻訳書を教科書としていた。
これは民間発行の翻訳図書を文部省が調査し適当と認めたものと、文部省の編集局・直轄の師範学校で編集した「小学読本」があった。
・明治19年(1886) 教科書検定制の施行
この年初代文部大臣になった森有礼は、教科書は文部大臣の検定したものに限るとした。当時の検定教科書の代表的なものの1つ、明治26年(1893)の『小学修身経』の巻1第1課「鳳輦(ほうれん)」に「てんしさまをたふとむべし」という教訓が掲げられている。内容は日清戦争直前の緊迫した空気をそのまま反映し、最後の20課は「軍艦」となっており「くにのためにはみをもわすれろ」と説いている。忠君愛国の教育が検定教科書を通して強化されはじめたことが窺える。
このことに関わり、明治29年(1896)、貴族院は国民精神統一の必要から修身教科書を国費で編集することを建議。翌30年にはさらに「小学読本」をも国費で編集し値段を安くすることを希望する旨、建議するという動きもあったが、教科書編集に関わりよくない噂が流れ、明治35年(1902)知事・代議士・校長など143名が検挙される教科書疑獄事件が起こった。この事件を契機として明治36年(1903)、国定教科書制へと一挙に変更されることになった。
・明治36年(1903) 第1期の国定教科書
明治36年(1903)から第1期の国定教科書が使用され、その後、昭和20年(1945)の終戦まで42年間続き、その間、5回改定された。
第1期の国語教科書は黒色の表紙で「イ エ ス シ」で始まるもので、資本主義の興隆を反映して比較的近代的な内容が盛られていた。修身教科書にも欧米人がたくさん登場する。たとえば、リンカーンの奴隷解放を扱った「人身の自由」、ナイチンゲールの生きものあわれめという「動物愛護」のテーマなど、イギリス人が称賛したほどであった。
・明治43年(1910) 第2期の国定教科書
日露戦争(1904~5)が終結し、これらの教科書では忠君愛国の国民が育成されないとの批判が起こり、国定教科書の改定が行われ明治43年(1910)から使用される。
第2期の国語教科書は「ハタ タコ コマ」で始まる。冒頭の国旗がものがたるように帝国主義段階に入った日本の国情を反映して、ナショナリズム−国家主義的性格を濃厚に強く帯びていた。登場する人物も欧米人は急に減少し、代わって「二宮金次郎」がしばしば登場し全体に封建臭の強い道徳観が表れている。この期の特色は国家倫理が家族倫理を拡大した形で教えられ、「家族主義的国家観」が形成されてきたことである。
・大正7年(1918) 第3期の国定教科書
第3期の国定教科書は、第1次世界大戦後の大正デモクラシー時代に改定され、大正7年(1918)から使用された。
第3期の国語教科書は1・2期の表紙が黒色に対して灰色表紙であり、こんなところにもデモクラシーの世相が現れているのか、「ハナ ハト マメ マス」で始まる。この期の修身の教科書には「国交」というような国際協調的な教材が、国語の教科書には「アメリカだより」のような国際理解の教材が多く現れる。そのほか選挙に関するものなど、政治の成熟・近代的な内容を特色とし、編集もアメリカの児童中心主義の教育思想の影響を受け、全般に明るくなっている。
・昭和8年(1933) 第4期の国定教科書
昭和6年(1931)滿州事変が起こり軍国主義が日本を支配するようになり、8年(1933)から第4期改定の国定教科書が使用される。
第4期の国語教科書は、セピア色の表紙で内容も色刷りとなり「サイタ サイタ サクラガ サイタ」で始まる、センテンス・メソッドを採用した初めての教科書である。
国語・修身ともに見た目は明るく美しく立派になったが、内容は、それとは裏腹に軍国主義台頭期という時代に即して、国家主義的性格が強く「神話教材」が急に増え、国語では古典教材の多くなったことも特色である。
第5期の国定教科書改定は、太平洋戦争勃発の昭和16年(1941)であるが、同年3月の国民学校令とともに、第7節の戦時下の学校の項で述べることとする。
国定教科書
教科書制度は,明治19年から検定制度が実施されたが,明治35年の教科書事件を契機として,小学校教科書は明治36年に国定制度となり,以後,戦後の新教育になるまで続いた。
学制百年史(文部省・昭和47年)より