2、国定教科書の改定

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 昭和16年4月1日、国民学校令と同時に第5期の国定教科書改定が行われた。
 国民学校の教育目的は、濃厚な国家主義の思想を基底としており、この戦争遂行の一翼を担ったことは明白であり、それは同時に改定された教科書にも色濃く出ている。この教科書について唐沢富太郎(東京教育大学教授)は次のように記述(ブリタニカ国際大百科辞典)している。
 
 一九四一(昭和十六)年に小学校が国民学校になったとき、教科書も改訂され第5期の国定教科書が使用されるにいたった。国語は「アカイアカイアサヒアカイ」で始まるが、内容は超国家主義、軍国主義の性格が強く、戦争目的完遂のための『皇国民練成』ということに集約されている。神国観念を養い、皇国臣民であることを教えて、忠君愛国一本の道徳を徹底させようとするものであった。
 
 教科書改定に先んじて、まず、教科の再編がなされた。
 
教科の再編  教科再編のねらいは、国民学校令の理念・目的を果たすことで、皇国民としての精神教育の強化を基底とし、初等教育の基礎がためを図ることにあった。
〈教 科〉 国民科・理数科・体練科・芸能科・実業(高等科)の5つの教科とし内容を次のように示した。なお、教科の1時限の時間も45分から40分に短縮された。
 国民科は、国家精神を養うことが主とした目的で、1,2年は修身を重視、4年以上の国史は天皇史観の強化(例えば 歴代天皇 神武天皇から歴代天皇、今上天皇までの称号の暗唱など)、地理は戦時戦略を想定した内容(例えば 大東亜共栄圏・東南アジアの国々の産物ゴムや石油などの鉱物資源を覚えるなど)を重視、理数科では4年以上の理科は国防科学との結び付きを重要視、体練科については体操と5年以上の武道(徴兵にたえ得る体力と精神力づくり)に分け、3年からは教練科目が加わるが、これは軍事訓練であり、各校に配置された将校の指導と監視の目が光った。芸能科については音楽や図画が戦争礼賛と軍事一色となり、他科目の影は薄くなり戦争末期には授業も成立しなくなった。これは教材教具の不足もその原因であった。実業科については、高等科の制度化が遅れ教科書も編成されず、生徒も勤労動員に駆り出され授業が成立しなくなったという実態であった。

[表]

 
新教科書  国民学校令を実施するに当たって最も緊急を要するのは新教科書の編集であった。5教科および内容項目についてできあがった以上、これを具体化した教科書が要請されることは当然であるが、これまでのように、まず、国語の本から作り、それの程度に合わせて他の科目を作っていくというような余裕もなければ、毎年1学年分ずつ順次に編集・発行するというような悠長なこともできない。そこで、取り敢えず、昭和16年度には、まず初等科1・2学年用の全教科書を発行、17年度に3・4学年分を発行、18年度には5・6学年で初等科を終える。そして、高等科用を発行、およそ4年間で全8学年分を完結するという目標がたてられた。
 しかし、昭和19年(1944)になると戦局はいよいよ不利となり、6月の末、政府は、「一般疎開の促進を図る外、国民学校初等科児童の疎開を強度に促進する」ことを閣議決定する。これにより、都会地の多くの児童が農、山村の縁故先に疎開した。さらに政府は縁故先のない児童について集団疎開(学童疎開)の方法をとるを決定、保護者申請による「国民学校初等科三年以上六年まで」を対象とし、昭和19年(1944)8月、実施にふみきった。これは、もちろん学校単位として行われ、翌年には疎開児童45万人を数えるまでに膨れ上がった。このような状況の中で、また、以後、戦争末期には戦火は本土にまでおよび、疎開先の学校でも、現地の学校でも、この教科書による正常な授業を行うこと難しい状態となっていった。
 第5期の国定教科書改定により生まれたこの新教科書は、日本が真珠湾を奇襲攻撃し米英に宣戦布告、太平洋戦争に突入した年ということを象徴してか、これまでの教科書の中でも際立って天皇の神格化・国家主義、聖戦・軍国主義の色濃いものであった。その実践については次の3、戦時下の実態に、その一端を記す。
 戦争が終わって焦土のなかで占領下の学校教育が出発したが、第5期改定の国定教科書は使用された。しかし、この教科書の国家・軍国主義の色彩の教材については、連合国軍(GHQ)の命令で、全部墨で塗りつぶされた。特に、国語、国史地理は墨で消された部分が多く、とりわけ天皇史観の強い国史は殆どが真っ黒につぶされた(昭和21年9月、戦後まず最初に歴史教科書の「くにのあゆみ」がつくられたのは、このためである)。
 連合国軍(GHQ)の教育改革については後述するが、終戦直後の学校教育・教育行政に対する視察・摘発の目は厳しく、学校現場ではその筋からの命令を受け、あるいは自主的に、戦時下の指導資料・おおくの実践記録などを焼却したのである。