『北海道庁立青年学校教員養成所』

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 北海道の青年学校の教員養成機関、『北海道庁立青年学校教員養成所』が設立されたのは、青年学校の設立と同時の昭和10年4月1日である。
 これは、大正12年(1923)4月22日、「北海道庁告示」(第159号)により設置された「北海道庁立実業補修学校教員養成所」(実業補習学校については第2節参照)を改称・改組したもので、昭和10年3月31日「青年学校教員養成所令・規程」(勅令第47号・文令第6号)によるものである。以下に、その「青年学校教員養成所規程」の概略を記す。
 
 青年学校教員養成所規程の概略
 第一条 修業年限 二年 必要ある場合一年以内の延長
 第二条 入所資格 ①修業年限五年(女子四年)の実業学校卒業者
         ②師範学校・中学校・高等女学校卒業者
 第三条 履修学科目
    (男子)修身及び公民・教育・国語・国史・体操・職業科
 (女子)修身及び公民・教育・国語・国史・体操・家事・裁縫・職業科、その他必要に応じて学科目の加設有り(地理・数学・音楽・図画等)
 第四条 講習科 青年教育の必要に応じて設ける
 第五条 教員養成所の教諭・助教諭 実業学校(商・工・農業・水産学校等)の教員資格を有するもの
 第六条 施設設備 校地・校舎・実習場・体操場及び校具を備える
 第七条 設置場所 公立の学校・試験場・講習所に併設もよし
 
 以上、養成所の規程についての概略であるが、なかでも青年学校のレベルに合わせ、教員になるための入学資格の高さと、履修すべき学科目の範囲の広さが特筆される。
 次に、この青年学校教員養成所の教育方針について全文を記すこととする。
 
 教育方針
 本校の教育方針は我が国体に基き教育勅語の聖旨を奉載し滅私奉公皇運扶翼の至誠に燃ゆる国士的気魂の皇国民の練成に努むると共に青年学校教員養成所の教育趣旨を体し現下の時局に鑑み本道の特殊性を考察し特に現地並に現物の教授に重点を置き男子部にありては本道農業経営の実体を体得せしめんが為相当面積の農場を付設し相当数の家畜を飼育し之が経営に当らしむ。
 女子部にありては本道農村生活の合理化を体認せしめんが為一般農業並みに蔬菜園の経営にあたらしむと共に家庭科の実践として共同自炊生活を営なましむ。
 かくて勤労愛好の下進んで本道開拓の木鐸たらんとする志士的青年学校教育者を養成するにあり北海道庁立空知農業学校校舎の一部を借り受けて開校している。
 
 このような教育方針のもとに北海道庁立青年学校教員養成所は、校舎も実業補修学校教員養成所の後を引継ぎ、北海道庁立空知農業学校(現北海道岩見沢農業高等学校)の一部を借受け、翌年から作業室・寄宿舎・鶏舎を建設、昭和13年には空知郡農会より畑地2町歩を購入、教育方針にうたわれている農業経営の実践充実を図った。
 この年、昭和13年6月、慢性的な青年学校教員不足から「北海道庁立青年学校教員養成所臨時養成科規程」(北海道庁令第37号)を制定、以下の第一・二の臨時養成科を設立した。
 第一臨時養成科 農業を主とする 定員50名
         岩見沢の青年学校教員養成所に設置
 第二臨時養成科 水産を主とする 定員15名
         北海道庁立小樽水産学校に付設
 この小樽水産学校に付設の第二臨時養成科では、水産課担当教員の実務的資質向上の為、昭和14年(1939)・昭和16年(1941)・昭和17年(1942)に水産講習会を開いていた。その実践について「北海道教育史」には「昭和十六年の水産講習は、小樽水産学校実習船若竹丸の乗船実習(航海乗船実習・機関運転・海洋観測・イカ釣り実習)および発動機運転、網・漁具製作、製造加工の実習、その他、水産試験場・北海製罐工場の見学等を行ったとの記述が見られ、当時、レベルの高い講習会を行っていたことが窺える。
 この臨時養成科は、ともに修業年限1年で、第一臨時養成科については2年間続いた後、廃止となったが、水産を主とする第二臨時養成科は、道南を始め北海道の漁村からの要望が強く昭和19年4月には独立・昇格し「北海道庁青年学校水産教員養成所」となったと北海道教育史全道編第四(北海道教育研究所編)には記されている。だだ、昭和19年(1944)2月「師範教育令」(勅令第81号)が改正され、青年学校教員養成所は同年4月から北海道青年師範学校(岩見沢青年師範学校−現北海道教育大学岩見沢校)となり修業年限が3か年となったと、北海道教育史全道編第四にあるが、青年学校水産教員養成所の以降については不明である。
 以上のように政府・道は青年学校充実のため教員養成にも力を入れ、情熱と優れた指導力をもった青年学校の教師たちが次々と誕生したが、戦況は日増しに悪化し、昭和18年には「青年学校に於ける教授及び訓練の臨時措置に関する件」により職業科は勤労時間となり生徒は軍需工場へ学徒動員に駆り出され、普通科も職業科に割り当てられる。
 さらに、戦況が末期的な状況となってきた昭和20年には、国民学校初等科を除くすべての上級学校(国民学校高等科・青年学校・中学校・実業学校・高等学校・師範学校等)は4月1日より閉鎖、援農(農作業援助のため学校ごとに農村に赴く)、軍需工場や軍事施設(戦闘機の緊急滑走路づくり等)作業などに駆り出されて、すべての教育機能を失ったのである。
 なお、本町を含め道南地方の青年学校の職業科担当の専任教員は皆無であったが、小学校高等科担当の青年学校と兼務していた教員で、小樽水産学校に付設の第二臨時養成科の水産講習会に参加した可能性があると推察する。
 第3章青年教育については『北海道教育大学大学院教育研究科 林 博昭 −道南地域における青年学校の技術教育に関する調査研究−(2001年MS)』を参考とする。