学校給食の必要性については、学校での食事の平等性と栄養のバランスと体位向上などから当時は異論はなかった。なかなか実現を見なかった理由は専ら経費の問題であった。父母の負担も容易でなかったが、何としても施設設備の建設費であった。
上田教育長は綿密な設置計画案を作成、前田町長は全面的にそれを支持し、昭和40年(1965)6月には教育委員・町議会教育厚生常任委員会による給食センター設置町村の視察も行い実施を決め、道教育庁に国庫補助事業決定を願う陳情書を提出した。
道教育庁へ提出した給食センター建設の陳情書が通り国庫負担金も決まり、いよいよ着工の運びとなった。まず、給食センター本体は衛生管理と作業能率の上がるものとして耐火建築、重油ボイラーを備え、その他洗浄機・消毒機など当時としては近代的な器材を揃えた施設・設備となった。設計は北匠設計事務所、工事は千葉建設が請負い、内部設備や備品などについては成沢商店が納入することとなり、昭和40年10月9日着工し、同年12月25日には待望の学校給食センターが完成した。
学校給食センター建設事業
事業費および財源
給食センターの運営
〈職員〉41年3月、教育委員会は一般から栄養士(専任)1人、調理員5人を募集、センター長1人、事務員1人、運転手1人、計9名の職員を配置した。
〈運営委員会〉献立企画・物資の調達・調理の改善などの事業計画の承認、連絡調整など給食センター運営の円滑化をはかるため組織として、各学校長・PTA代表・婦人団体代表を以て構成する学校給食センター運営委員会を設置した。