慶応4年(明治元年)3月17日、政府は諸神社に通達して、仏教僧侶が社務(神社)に従うのを禁止、僧侶をことごとく還俗(げんぞく)させ、僧位・僧官を返上させることにはじまる。ついで、4月28日、権現(ごんげん)とか牛頭天王(ごずてんのう)とかの仏教語をもって神号をとなえている神社に、その由来を詳しく報告させ、仏像を神体とすること、仏像を神社に掛け梵鐘(ぼんしょう)・仏具類を神社に置くことを禁止するなどの法令をだし、神仏をきびしく分離させた。
この神仏分離令は、たちまち全国に厳しく行きわたり実行にうつされた。幕末の、倒幕・王政復古の推進力となった志士、その中でも「草莽(そうもう)の士」と呼ばれた勤皇派の浪士達は多かれ少なかれ国学の影響を受けていたので、幕政下、僧侶に圧倒され不満を持っていた神職らとともに、神仏分離令実行の先頭に立って、神社と仏堂、社地と寺域の分離の強行に走った。これらの行為は、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)へと踏み込むが、これについては後述する。