明治14年(1881)1月の神道大会議を契機として、明治政府はいよいよ神社ないしは神道と、宗教を分離する方針を確定した。そして、神官と教導職との兼補をやめ、続いて社頭における説教・講演を禁じ、さらに神・仏教導職を全廃した。また、これより先に十三派などの教派神道(註1)を次々に(諸宗教として)公認していった。
これは、維新以来の祭政一致・神道国教主義を廃止し、神社を宗教としての神道から分離して、十三派などの教派神道および仏教・キリスト教・その他の諸宗教に超然たる『国家の宗祀』としようとするものであった。
国家神道はここから興ってきたものであった。その樹立に最も力を尽くしたのが、明治政府の指導者であった山田顕義(1844~1892)と井上毅(こわし)(注2)(1843~1895)である。特に、井上の明治21年(1888)12月、皇典講究所で行った国家の宗祀の必要性についての講義は、翌年2月に発布された大日本帝国憲法の根本思想でもあった。しかし、神社信仰はすでに宗教である。ここに、この憲法の信教の自由に関する明文も、単なる口先だけの言い訳にすぎなくなった最大の理由があろう。
(註1)教派神道 国家神道の確立により、宗教としての神道諸派は、すべて教派神道(宗派神道・宗教神道などともいう)の名のもとに一括され、国家神道体制の支柱として位置づけられた。それらは、①黒住教・禊教・金光教・天理教などのように幕末に創唱されたもの、②扶桑教・実行教・御岳教などのように山岳信仰を再編成したもの、③神道修成派・神宮教・大社教・大成教・神習教・神理教・単称神道などのように純神道系および儒教系に属するもの、およそ3つに分類することができる。以後、教派神道は一種の特権的地位を与えられ、仏教・キリスト教以外の独立を公認されない民間諸宗教を傘下におき、国家神道体制に翼賛、協力したのである。
(註2)井上毅(こわし) 熊本出身、明治時代の政治家、司法卿江藤新平の渡欧に随行し、帰朝後諸官を歴任、岩倉具視に信任された。明治16年(1883)岩倉の死後、憲法調査のため渡欧して同年帰朝した伊藤博文のもとで、伊東巳代治、金子堅太郎とともに、大日本帝国憲法および付属法令の制定に参画する。さらに、皇室典範、教育勅語、詔勅などの起草に参画し、明治憲法体制の樹立に貢献するところが大きかった。後に、枢密顧問官・文部大臣を歴任している。