大正の初期に、稲吉(いなよし)五郎作という石工が、戸井の沢で石炭を発見したという話が伝えられている。
大正四、五年の頃、稲吉五郎作が石を採りに熊別川か原木川の沢へはいり、帰りに黒い石を持ち帰った。この頃ははどこの家でも炉で焚火(たきび)をしていた時代であった。
五郎作は子どもたちに「これは沢で見っけたんだが、石炭というものだ」と言って、炉で焼やして見せた。五郎作は石炭の出た場所を子どもたちにもくわしく話さなかった。大正四、五年頃は戸井で鰛の大漁が続いた年である。
稲吉五郎作は文久二年(一八六二)九州の大分県で生れ、戸井で鰛の大漁が続いた明治二十年頃、石工として九州から戸井村の浜中に移住し、村内の網元の石垣や袋澗を築造した人であり、〓宇美家の三号漁場の石垣を築いたのも五郎作で、この時三基の板碑のうちの一基を割って石垣の下部に積んだことを知っている人もいる。
五郎作は「石炭の秘密」を誰にも語らず、大正十二年(一九二三)六十二才で死去した。五郎作の死んだ年は鰛の外にイカも大漁であった。
五郎作の死後、長男豊が後を継いだ。(五郎作長女 佐藤フジ談)