①明治三十一年(一八九八)七月三十日
売っても、食っても余り、鰮粕をつくるようにしてマグロの締粕をつくった。
②明治四十年(一九〇七)十一月十九日
③大正五年(一九一六)十一月十一日
大マグロの大漁があった。
④大正十三年(一九二四)十一月
一尾五〇貫乃至六〇貫という大マグロの大漁があり、一尾一〇〇円くらいに売れた。
マグロ大漁の頃は鰮も大漁であったので、鰮を惜しげもなくフンダンに、海へまいて餌(えさ)にしてマグロを集めてとった。大正十三年十一月の大マグロ漁の時は、鰮を海にまいてマグロを集め、曳網をかけて網の中に入れ、曳網の中へ鱒網をかけてマグロを大量にとった網元もある。
マグロ大漁時代は、鰮漁よりもマグロ漁で産をなした網元もあったくらいである。
鰮の締粕(しめかす)(生玉(なまたま))
明治三十一年頃、陸路海路とも、輸送機関の不十分であった時代は、大漁してもダンツケ馬で函館まで運搬して売る程度で、大漁の割に金にならなかった。
長谷川益雄が少年の頃に見た明治三十一年のマグロ大漁の状況を追憶した一文があるので抜き書きして見たい。
「去年(明治三十一年)、夏休みで戸井に帰省したのは、七月三十日の午後三時頃であったが、家には誰もいなかった。たった一人で留守番をしていた妹に聞くと、この日、マグロの大群が浜中沖に押しよせ、なぎさ近くまで突っこみ、〓宇美さんが曳網をかけたら、ものすごい大漁で、とりもとったり二五〇〇尾という未曽有の大漁であった。その見事な光景を、一家揃って見物に行ったという。
間もなく近所の人たち四人で、十二、三貫もあろうと思われる大きなマグロを一本『ヨイショ、ヨイショ』とかけ声をかけながら、かわるがわるにかついで来た。聞けばこのマグロは〓さんからもらったのだという。こんな大きなマグロなので、隣り近所に分けてやって、一家であきるくらい食べた。
この日は〓さんだけでなく、戸井のどの網元も大漁であったので、その晩から川にマグロをつけておき、戸井中の川はことごとくマグロに占領されてしまった。これは、真夏(まなつ)なのに冷凍庫はなし、塩蔵するにしても塩に限度があり、函館へ運般するにも今のように船やトラックはなし、村にいるダンツケ馬を総動員して搬出するくらいが関の山であった。売っても、くれても、食っても始末がつかず、川につけておいたマグロも腐敗してくるという状態で、捨てるよりはということで、結局大部分のマグロは、鰮釜で煮て、鰮粕ならぬマグロの締粕を製造したのである。
この時は、戸井中の人々はもちろん、近隣の村々の人も、飽(あ)きるくらいマグロの刺身を食べ、マグロは見るのも嫌だという人がたくさんいた。今考えると全く夢のような勿体(もったい)ない話である。
ところが大正五年と大正十三年の大漁の時は、いずれも十一月であり、輸送機関も発達していたので、明治三十一年のようなことはなく、ひと漁で成金になった網元もあった。