八、北海道庁時代の概観

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 この時代は三県制を廃止して北海道庁が置かれ、全道を一括統治するようになった明治十九年(一八八六)一月から太平洋戦争の終結した昭和二十年(一九四五)までの六十年間である。
 札幌に道庁が置かれ、首長を長官と称し、長官は中央政府から任命され、年号は明治、大正、昭和と続き、この間、日清、日露の両戦役、欧洲戦争、太平洋戦争などがあり、多事多端な時代であった。
 三県制は開拓がその緒についたばかりの北海道の実情に適せず、その行政は支離滅裂であるなどと批判する者が出て、その改革を建議する者が続出したため、政府は明治十九年一月、三県制を廃止して北海道庁が設置され、岩村通俊(みちとし)が初代北海道庁長官に任命された。
 岩村長官は明治二十年(一八八七)五月、全道郡長会議を開催し、施政方針を示した。
 岩村長官の示した施政方針の大綱
  1 港湾の修築、灯台の建設
   この年襟裳(えりも)岬、神威(かむい)崎、白神崎の三ケ所の灯台建設に着工した。汐首灯台はこの年から六年後の明治二十六年(一八九三)十一月に竣工点灯されたのである。
  2 道路の改修開削、鉄道の敷設
  3 馬匹の改良、増殖
  4 駅伝、旅店の改善、新設
 初代岩村長官以来、歴代の長官がこの施政方針を継承し、更に明治三十三年(一九〇〇)北海道拓殖十年計画が樹立され、道路橋梁排水費として十ケ年間で約一千万円の予算が計上され、翌明治三十四年から実施に移されたが、明治三十七・八年の日露戦争のため、計画の五十二%の実施に止った。
 道庁が設置された頃から、我が国は外国文化を急速に吸収消化し、国力が漸増し国運が進展したが、日清、日露の両戦役で莫大な国費を支出したため、北海道の拓殖計画が停滞し、地方の開拓に手が届かなかったというのが実態であった。
 初代長官以来、その施政方針が継承されて六十年間拓殖に努力したにもかかわらず、戸井を含めた下海岸はもちろん、道南一帯に対する開拓の恩恵は極めて少なかったのである。
 大正の欧洲戦争の景気も僻村戸井はその影響を受けず、昭和時代にはいっても初期の不景気のあおりを受けて下海岸の住民は生活に困窮し、その後満州事変、支那事変、太平洋戦争へと発展し、働きざかりの男子が次々と出征し、多くの子弟が戦死し、郷土に残った人々は悲惨な生活を繰り返して漸やく太平洋戦争が敗戦という形で終結し、平和な時代が蘇(よみが)えったのである。
 この時代の明治三十年代から昭和十二・三年頃までが戸井の鰮大漁時代で、最も繁栄を極めた時代であったが、鰮漁が皆無に近くなってからは、戸井も昔の面影を失ったのである。
 六十年間で下海岸が開拓の恩恵に浴したと思われるものは、大正十年に電燈がついたこと、海岸道路が開削され、昭和の初期に下海岸に乗合自動車が開通した位のものであろう。
 北海道は地域が広大だとはいいながら、北海道庁時代六十年間に、道庁所在地の札幌を含む道央や道東の拓殖に重点が置かれ、道南地域が置き去りにされた観がある。北海道の発祥地である道南が取残されたということは、中央重点の道庁行政の結果であろう。
 先開後進の例が道南であり下海岸である。