昭和六年九月十八日、柳条溝の満州鉄道爆破事件を切っ掛けとして満州事変が発生し、最初政府は戦線の不拡大を発表したが、関東軍を中心とする軍部は、昭和七年三月一日満州国建国を宣言し、その実権を手中におさめ次第に戦線を拡大していった。
一方国内においては、満州事変の頃より、内閣を軍国主義的人間で組織しようとする一部軍人や思想家が台頭しつつあったが、ついに昭和七年五月十五日、いわゆる五・一五事件を起した。
昭和七年五月十五日一部反乱将校は、政党内閣であった犬養毅を暗殺したため、政党政治はここに終りを遂げ、以後軍人や官僚出身の内閣が出現することになった。
軍部はこの他にも官僚や大資本家と手をたずさえるようになり、政治力、経済力を手中にし更に精神面までもおさえるべく、天皇を中心とする神国思想の充実をはかり、これに反する思想の統制が始められた。
一方国外においては、日本軍の満州進出に対して中国は国際連盟に訴えを起し、国際連盟は調査団を現地に派遣して調査した結果、これは日本の軍事行動であると断言し占領地域から直ちに引き揚げるように勧告した。しかし日本はこれを不満として昭和八年三月二十七日国際連盟を脱退した。