・昭和十一年二月二十六日 天皇親政を信奉する皇道派陸軍将校達は、下士官兵千四百名を率いて反乱を起し、斉藤実内大臣、高橋是清蔵相等を殺害、警視庁・朝日新聞社を襲撃し国会議事堂周辺を占領したが、二月二十九日、事件発生後四日、政府の戒厳令がしかれている中で、反乱軍の大部分は帰順し反乱は落着をみた。しかしこれから以後軍部に対抗できる力は政治家にはなく、軍部の独裁的傾向がますます強化されつつあった。
満州事変後、日本の国家財政は年とともに膨張をはじめ、中でも軍事費は年々増加していきこれに伴って軍需産業は大きく発展をみせ、日本経済は恐慌の泥沼からようやく抜け出そうとしていた。
しかし一方では労働者を低賃金で雇い、こうして生産された輸出品を安い価格で販売したため、欧米諸国はこのことに脅威を感じはじめ、高関税による保護貿易をとりはじめた。更にこれに追い打ちをかけるように中国も日本に対して日貨排斥運動を起したため、日本の輸出は急速に減少の道を歩みはじめた。
このような状況下でも日本は軍需物資生産や輸出品生産のために、原料を輸入しなければならなく貿易は赤字となり、日本経済は大きな痛手をこうむることになった。そこで日本は力による中国貿易の拡大を押し進めるようになり、遂に昭和十二年七月七日北京郊外の盧溝橋において日中両軍が衝突し、日中戦争が開始されることになったのである。
時の政府はここでもまた戦線の不拡大を声明していたが、軍部はこれをおさえ、戦線を華北ばかりでなく華中にまで拡大し、以後国内では軍部に対抗できる力はなく、ますますファショ化の道へと突進した。
かくて、昭和十三年五月「国家総動員法」が施行され、戦時体制という名のもとに政府は物資と労働力を動員できる権力を有するようになった。また日中戦争が進行するにつれ、思想・言論の取り締りが一段と厳しさを増し、国家主義の前に自由は次第にせばめられるようになっていったのである。