戦時下の国民生活

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 戦争の長期化は国民生活の全ての面に大きな影響を与えた。すなわち昭和十五年七月より叫ばれはじめた「新体制」の中で、産業報国会・在郷軍人会・警防団・青年団・大日本婦人会・町内会・部落会・隣組などの組織が大政翼賛会の指導下に置かれ、「上意下達」により日常生活の全ての面まで支配されるようになった。具体的には、燈火管制・防空演習・民間監視体制・食料の配給・戦時公債や貯金の割当・勤労動員・出征兵士の見送り・英霊の村葬執行等であり、この他に学問・言論・思想・信教にまで抑圧を加え、戦争遂行のために勝利の宣伝を声高らかに叫び、国民を戦争の渦中に巻き込んでいった。
 その後ますます戦雲が深まる中で、こんどは国は国民に人的資源である兵員と労働者を求めはじめた。国は各種の動員令を発して「国のため」という一語で国民に犠牲を強いるようになっていった。
 
◇全国民に対する動員
・兵役
 十八歳から四十五歳迄の男子の内、約三十六パーセントが兵士として出征し、兵士となった者の内約六分の一は戦死している。
・学徒動員
 戦争の激化に伴い昭和十八年から高等学校・大学予科は二年・大学は二年半で卒業に改められ、理工科以外の大学生の徴兵猶予制度は廃止され、更に徴兵年齢は一年下げられ十九歳から兵として出陣することになった。
 この他にも昭和十九年から中学生勤労動員が決定され、学校には入ったが授業はほとんど行われず、各種工場の生産要員として、あるいは援農と称して労働力のない農家の手伝いに行ったりするのが実情であった。この後昭和二十年には、ついに学校の授業が一年間停止となるような有様であった。
・徴用
 国家総動員法により、軍隊に入隊しなかった男子の大部分は「徴用工」として軍関係の工場に動員され、女子もまた「女子挺身隊員」として主に軍需工場に動員された。

昭和15年11月7日 函館新聞


汐首燈台下陸橋 (昭和15年11月 戸井線工事中止)