千人針と隣組

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・千人針
 日中戦争が始まって国を守らねばならぬ、勝たねばならぬの世情にあって、町に村に、夫に、兄に、恋人に、出来るなら来ないで欲しいという祈りもむなしく、一通の赤紙・召集令状が舞い込む。これを拒否することは出来ずあとは唯々彼らが無事に元気で、一日も早く我が胸に帰還するのをじっと待つ唯それのみであった。
 街かどで、会合で、職場であらゆる場面で戦線に征く肉親のために、千人針の一針を乞う婦人達が多数出現した。今の若者達は迷信と笑ってすませられるかも知れないが、これを乞う婦人、それに応ずる婦人、彼女等の胸中にはいずれも無事を祈る悲願がこめられていたのである。多数の女性に縫ってもらう千人針の中に、どうしても一針を縫いたい特別の縁(えに)しの女性がいた。五更(こう)の寅という寅年生れの(寅の刻に生れた)女性で(寅の中の寅)、虎は千里の道を進み千里の道を還るという古事によるもので、この女性がいる家へはかなりの遠方からも一針をもらいに来たといわれている。こんな時に歌われた歌が「千人針」の歌である。
・隣組
 昭和十三年五月から始められた隣組制度は、昭和十五年には「新体制運動」の一環として更に強化され、「翼賛体制」を支える国民の実行運動の最先端となった。即ち「勤労奉仕、出征兵士の見送り、遺族や留守家族の世話、防空演習、国防献金、公債割当」などの相互活動を政府の命令に基づいて行うようになり、こうした体制の中で国民の自由権は戦争体制の確立ということで奪われ、隣保組織(隣組)はこの統制の一機関として利用されるようになった。このような時期に「国民歌謡」の一つとして毎日流されたのが「とんとん・とんからりと隣組」という歌である。