すなわち、戦争犯罪人の逮捕・政治・思想犯の釈放、財閥解体、農地改革、憲法改正等の実行である。
こうした情勢の中で天皇は、連合軍総司令部(GHQ)に強制されたわけではなかったが、「天皇は神にあらず」といわゆる人間宣言を発した。また、かつて国家に擁護(ようご)されていた神道は、信教の自由を守るという立場から、国家は宗教に対して中立でなければならないという考え方に基づき、国との関係を絶ち切られることになった。
国民は長かった戦争がようやく終り、平和で自由な生活をやっと得ることができたが、しかし人々は次に食糧難と物資不足に苦しまなければならなかった。
平和再建の聖斷下る 昭和20年8月16日 北海道新聞
昭和二十年は全国的な大凶作であり、これに米軍の空襲により食糧の焼失、そして敗戦引揚者・復員軍人の帰国等が重なったため、昭和二十年より二十二年頃にかけて大食糧不足が生じた。昭和二十年に定められた一人一日二合一勺の主食配給制は全く実行できなくなり、代わりに麦・じゃがいも・サツマイモ・こうりゃん・あわ・ひえ・豆カス・トウモロコシ・カボチャ等によって代用するのがほとんどの状態となり、昭和二十年末には、それさえも維持できないような有様となった。
こうした中で都市では餓死する大人や、母乳が出ないため栄養失調で死亡する赤ちゃんが多数あらわれ、家庭では毎日の食事を確保するために必死の努力が払われた。
すなわち、食糧の枯渇した都市の人々は、着物や洋服を携さえ農村に食を求め、更に空地という空地や植木鉢や缶の中にまで、じゃがいも・かぼちゃ・野菜などを植え付け食糧を得ようとしていた。
国民の苦しみは食糧難ばかりでなかった。政府は敗戦後の経済政策に充分な配慮をしていなかったため、やたらに紙幣の乱発を行った。昭和二十年八月に二百八十六億円の紙幣発行高であったものが、翌二十一年二月には六百億円をこえる発行高となり、ただでさえ戦争による物資不足であった処へ、通貨量を増大させたため大インフレーションが巻き起り、ここでも人々はまた生活苦に耐えなければならなかった。
このような情勢下で占領軍の『民主化』政策が押し進められ、自由と民主主義思想に勇気づけられた人々は、長い戦時中の圧政により、抑えられていた精神的エネルギーを爆発させた。即ち四月の幣原内閣打倒・五月の食糧よこせの大メーデーとなって現われてきたのである。しかし政府は食糧の確保やインフレーションの進行にストップをかけることは出来なかった。昭和二十一年二月、政府はインフレーション対策として新円の切り換えを実施し、何とか血路を求めようとしたが、物不足のため一向に物価の上昇は抑制することは出来ず、政府の定めた公定価格で購入することは非常にむずかしい状態であった。