このようにして実施させられることになった三県ではあったが、重要役職は旧薩摩藩(鹿児島県人)に占められており、また三県の財政支出は開拓使時代よりも増加の傾向にあり、かつ開拓事業の実績はあがらなかったため、わずか四ヵ年間で明治十九年一月二十六日をもって三県の制度は廃止されることになった。
政府の命令に基づき三県の制度について調査研究した太政官大書記官金子堅太郎から伊藤博文に報告された『北海道三県巡視復命書』(要約)によれば三県一局制の廃止について次のように述べられている。
……未開ノ北海道ヲシテ一蹴直チニ内地同一ノ県制ノ下ニ立タシメタルハ明治十五年ナリ。爾後県庁ハ専ラ内地ノ制度ニ模倣スルニ汲々シ、又開拓使ノ農工事業ヲ継続シタル管理局ハ徒ニ従来ノ事務ヲ維持スルニ止リ、兩ナガラ拓地殖民ノ急務ヲ計画スルコト能ハズ、空ク日子ト費用トヲ費シテ其為ス所ハ相睥睨シ相頡頑スルニ過ギズ、之ヲ奚何ゾ自今數十年ノ星霜ヲ経過スルモ、北海道開拓ノ大事業ハ決シテ期ス可カラザルナリ。(中略)
今日ノ計タル、政府ハ断然一大改革ヲ行ヒ県庁及ビ管理局ヲ廃止シ殖民局ヲ設立シ、欧米ノ殖民論ニ基キ事業ニ着手スル所ノ順序ヲ定メ、務メテ外形ノ虚飾ヲ省キ拓地殖民ノ急務ヲ実行スルニ在リ
すなわち要約すれば北海道の開拓事業を成功させるためには、統一的な行政機構が必要であり、順序を整えた開拓政策が行われなければならないという主張である。