明治初期本道の海運に従事していた船の大部分は、和船(日本型の木造船)で西洋型船にくらべて風浪に弱い面があった。このため開拓使は明治八年五月以降、五百石積み以上の和船の建造を禁止し、西洋型船を建造することを奨励している。
また明治初期の北海道沿岸一帯は、港湾・燈台・航路標識等の航海に必要な安全設備が整えられておらず、これに加えて夏季の海霧・冬期の激浪・流氷等の自然条件により、海難が発生しやすい状況に置かれていた。
こうした状況の中で北海道庁は、明治二十年から港湾及び河川の調査を進めるようになり、明治二十九年・三十年にはそれぞれ函館・小樽の築港に着手し、それ以後順次道内諸港の修築にあたるようになっていった。
また航路の安全確保のために、明治二十一年の白神岬・神威岬の両燈台の完成をはじめとして、道南の主要地点に次々と燈台が建設されるようになり、併わせて霧信号の取付け等がなされるようになったのである。
(恵山岬燈台は明治二十三年初点、詳細は第五章第一節恵山岬燈台沿革史参照)