明治三十九年七月二十四日午後四時四十分室蘭より青森へ向け出航した定期船長門丸、濃霧のため恵山沖で難航二十九日午後八時青森に入港、当時の新聞はこの時の様子を次のように記す。
明治三十九年八月二日 北海タイムス
○漂流中の長門丸
行衛不明となりて捜索中なりし定期船長門丸は、二十九日の夜無事青森に入港したるとは昨紙に報せしが同船の室蘭を出帆したるは二十四日午後四時四十分にして當時濃霧の為め室蘭附近の山岳など見るを能(あた)はさりしかは充分に注意を加へつゝ進航し來りしが元來斯(か)かる時の例として五時間位進航せば又も五時位逆航して舊位置を確め更らに十時間進航すると云ふことになり居るが廿七日惠山沖にて燈臺の霧報(むほう)を報するを聞けり依って海の深淺を測りしに七八十尋なりしかば更らにレットを以って海底を探りしに尻矢の海岸に近く思はるゝを以て危險を慮り其のまゝ航海を停止し居れるに二十九日午後二時頃霧霽れしゟ邊を見れは果して尻矢の海岸近く來り居れるにて夫より出帆同日午後八時四十分無事同港に着したる次第なるが積荷は石炭四百六十五噸コークス千六百八十噸、雑貨五個、船客一等一人二等五人、三等二十人にて航海中食料の〓乏を來たせしを以て二十六日より船員は日に一食乗客は二食にて饑餓の災と濃霧の險と戰ひつゝ無方針に洋中を進航しつゝありしが幸ひに入港し得たるは幸福と言ふへく若し尚ほ、一兩日洋中を彷徨(ほうこう)せば憐(あわ)れむへし彼等は船中にて餓死するやも計られずと、されば彼等は無事入港したりと言ふのみにて身体綿の如く疲れはて氣息(きそく)奄々たる様氣の毒の至りなりしと。