郷土の漁業を代表する鱈釣り漁は、明治、大正の末まで、持符に三人乗り、海岸から五里も一〇里も太平洋の沖合に出て、一夜を洋上にすごす勇敢な漁業であった。ひとたび気象の変化があると、船もろとも海の藻屑と消え去る危険と隣りあわせていた。
遭難にあって救助される例は少ないようだが、漁師であれば洋上で危険な目に遭った経験を、一度や二度もたないものはほとんどいないといっていい。
その遭難も、明治・大正までの小さな漁船のときは、遭難の原因はほとんど天候・波浪によるものであった。
昭和に入って沿岸の漁船も機械船となり、大型になってくると操船の誤りだったり、安全操業を無視したための遭難が目立つ。
船の装備や気象情報の発達で遭難は減るはずなのが、逆に件数がふえている傾向さえある。
昔の航海は、山見航法と船頭の経験による判断に頼った。気象の予報もないのでお神鬮(みくじ)なども用いられたという。
黒潮の流れの速さは台湾沖で二~三キロ、琉球で二~四キロ、土佐沖から紀州沖では四~五キロとなり、房州沖では時速一〇キロにもなることもあるという。黒潮の流れは黒瀬川といわれている。
難破船は、冬の戌亥の風(北西の季節風)に流されると、辰巳(南東)の海へ流される。時どき西から低気圧が通り、東に回ると戌亥(北西)の風が一層強く吹きつづける。
大型の帆船は、海上で大嵐に遭遇すると、積荷を捨て帆柱を切り倒した。船さえ転覆を免れることができて、運がよければ、何時か何処かへたどり着き、助かることが出来るかもしれないという、船人としての最後の決断をする。帆柱をうしなった船は、風のむくまゝ潮流のおもむくままに、太平洋を流れさまようことになる。
日本海では、命さえあれば、どこかの陸地に流れつく確率はたかかったが、太平洋へ流された船の漂着は、稀であった。
「昔は、よぐまア仕事したもんだ。三日三晩もかかって話したら、語り尽くすことができるか。昔は、話になんねえほど、苦労して苦労して暮したものだ。どこの家でも一食は、いもの塩煮(しおに)を塩辛(しおから)と漬物(つけもの)でたべた。一食はソバネッカゲくって暮した」。
木直の佐々木勇吉翁(明治三一年生)の短かい言葉にこめられた述懐は、そのまま郷土の漁村の生活を言い尽くしている。勇吉翁は木直の鱈つり口説節の保存に足跡をのこした。