明治三五年四月より樹木の伐採に着手した。對馬得三郎が経営したので対馬牧場と呼ばれた。
函館元町の葛西耕芳が支配したので葛西牧場ともいわれた。
丸山より常路川までに牧柵をめぐらし、保安林界約三百間に土塁を築設して明治三七年、川崎分の茅野に事務所を建築した。
馬三頭曳でブラオ二台とハローで耕作をした。牧草は「オチャード」「チモセー」「クロバー」を混播したという。
穀菜類は燕麦・玉蜀黍・大小豆・薯・家畜用ビート・同カブなど。毎年五月から十月まで、南部津軽秋田地方より人夫二~三〇名を雇入れ、一日五〇銭を給して伐採・耕作に従事させ、播種・除草・収穫の時期は近在の婦女二〇名を雇い、一日三〇銭~三五銭を給して作業させたと記録されている。
対馬牧場 大正7年 北海道所蔵「町村誌」