四月二五日付、臼尻からの報告によれば、二月から三月中旬までことのほかの鱈釣り大漁がつづき、四月下旬ごろまでに当初製造見込みの四斗樽一〇本が出来そうであったが、三月下旬にいたって不漁になったため、肝油二三貫七〇〇匁ほどにとどまったとしている。また、項を改め、鱈の気胞中から膠(にかわ)の製造が出来るようであるが、膠の成分比の分析がわからないので当年は膠の製造は中止したいと添えられている。
六月五日の製造の総量の報告には、鱈肝油一一〇貫目余りであると進達されている。
明治一〇年春、実地に試験製造された鱈肝油は予想以上の成功をみたわけである。製品上等一樽一六貫七〇〇匁は、開拓使札幌本庁に送られ、残り六樽のうち五樽は七月函館丸で東京へ送った。この年ひらかれる勧業博覧会に出品のためであった。函館には上等一樽一七貫二〇〇匁が残されていた。
明治一〇年七月一六日付、東京・邨橋より柳田宛に入った電文の控えがある。
「カンユウ、マ(ハ)、(三)(八)(五)ゴヲ、ヲンモヲシコシノヲモムキ、テ(一)、セリ、ワタナベモ(四)、マ(九)、サ(七)、アレ」
括弧のなかの漢数字は、当時の公文書(電文)の略号であるらしく、「マ(八)」に「到着」、「テ(一)」に承諾、「モ(四)」に「至急」、「サ(七)」に「取斗(とりはからい)」と添書きしている。
わかる範囲で解読すると、『肝油、到着した。(「(三)(八)(五)ゴヲ」は、函館からの要望事項のことらしい)御申し越しの趣は承諾した。渡辺(章三)を至急(「マ(九)」は東京勧業博覧会出品のこともあり上京させるように)取斗(とりはか)らいしてほしい』という内容がふくまれているように、前後の書簡から推測される。
九月二五日受付済の便の但書きに「渡辺章三至急赴任ニ付其前整頓致置度ニ付至急御許可相成度候事」とあり御用係渡辺の動向を伝えている。
一臼尻村製造相成候鱈肝油出来高
百拾壱貫三百目上等八拾四〆三百
下等弐拾七〆目
此ポンド千百拾三ポンド
右製造諸入費並臼港ヨリ函港迄運賃ヲ加ヘ
金三拾八円〇七銭三厘
但壱ポンド百目ノ見込ニシテ
金三銭四厘弐毛ニ当ル 是ハ函館ニテノ見積
函館ヨリ東京迄運賃並陸揚共金弐円五拾八銭六厘ヲ加ヘ
合金四拾円六拾五銭九厘
壱ポンド百二十目ニ改メ
此ポンド九百弐拾七ポンド半
但壱ポンドニ付金四銭三厘八毛ニ当ル
別紙諸入費調書相添此段申上候也
但シ器械ノ分 算相除候事
明治十年九月 御用係
渡辺章三
但 臼港ヨリ函港迄運賃
一金弐円五拾八銭六厘 同断 五樽
但 函港ヨリ東京迄運賃及陸揚トモ
合四拾円〇六拾五銭九厘