噴火湾空襲

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昭和二〇年、戦況は益ます日本軍(海、陸、空)の不利となった。
 三月九日、一〇日、東京はB二九の大空襲をうけ、焼失二二万戸、死傷一二万人余、罹災者一〇〇余万人の悲惨な状況となった。
 三月一三日に名古屋が空襲され、一四日大阪空襲、一七日神戸空襲とつづいた。
 四月一日、アメリカ軍は沖縄本島に上陸、六月二三日守備軍全滅の日まで、おおくの沖縄県民を犠牲にした。
 アメリカ軍の本土上陸、本道上陸に備えて、郷土の人びとも防空壕を手造り、竹槍の訓練をうけた。
 七月一日、フィリピン諸島レイガルを出航したアメリカ機動部隊(作戦部隊三四・八・二部隊は、旗艦アイオワ号、ウィスコンシン号、ミズーリ号ほか空母、巡洋艦、駆逐艦をふくむ大艦隊は、日本本土の各地を空襲する攻撃作戦のもとに北上した。
 七月一四日、一五日に東北、北海道が大空襲にさらされた。
 七月一四日早朝、郷土の沿岸は濃霧であった。
 突如、警戒警報、つづいて空襲警報が発令(ラジオ・サイレン)された。
 このとき濃霧の海上から南へ向かって飛ぶ大編隊が垣間見(かいまみ)られた。アメリカ軍の艦載機に、青函連絡船は一二隻のうち一〇隻が撃沈され、函館駅、駅前、西部地区も空襲をうけ、全焼四〇八戸、死者(船舶をふくみ)四五〇余名におよんだ。
 この日、道内の鉄道の各駅や町村が空襲をうけ、室蘭市と噴火湾の近海を航行していた船舶も攻撃をうけた。
 翌七月一五日早朝には、アメリカ機動部隊の艦隊は恵山岬沖を噴火湾に侵攻して、室蘭の艦砲射撃といわれる惨禍が郷土の沖合で展開され、ついで艦載機が噴火湾の町村を攻撃、機銃掃射と小型爆弾による攻撃を浴(あ)びせ、住宅などを破壊、焼失させ、多くの死傷者をだした。
 NHKの協力によるアメリカ軍の資料「室蘭空襲・艦砲射撃」の記録(室蘭地方史研究一五)によれば、室蘭の市街・工場など、すべての要所は、アメリカ軍の掌にあり、正確な座標に基づいて攻撃されていたことが示されている。

室蘭地方史研究15(昭和56年発行)より