[近世総説]

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 近世(後期封建時代)の中には織田時代(永禄十一年―天正十年)・豊臣時代(天正十年―慶長五年)・江戸時代(慶長五年―慶応三年)を含めるのが通説である。信長はすぐれた経世家として多彩な統一政策を遂行したが中途でたおれた。彼の遺業を継承して天下統一の大業を完成したのは秀吉であった。秀吉の事績の中で、石直(こくなお)し・一地一作人を原則とした太閤検地は近世をきりひらき、徳川幕藩体制の祖型をつくりだしたものとして高く評価される。信長・秀吉のもとで年久しく忍耐した家康は関ケ原戦勝で覇権を確立し、まもなく幕府を江戸に開いた。江戸時代は日本封建制の最後の段階で、当時の武士階級は全国の土地を領有し庶民を統治する機構として幕府および藩を組織していたので、このような幕府と藩の組合わせによる封建的国家機構を一般に幕藩体制と称している。幕府は徳川家の中央政庁であり、藩は諸大名の領国支配組織で幕府の統制に服しながらなかば独立性をもっていた。そこに藩の二重性格がみうけられる。幕藩体制の基礎は領地と領民であったから、幕藩領主層はこれを確立するために検地や村落制度の整備さらに身分格式制の維持に力をいれた。幕藩体制史の段階区分については諸説がある。たとえば、享保改革を境として、それ以前が整備と発達の時期、以後が停滞と衰亡の時期にあたると大観する説がある。これに対して、元禄のころから文化文政のころまでを幕藩体制の変質期とみて、体制に根ざす矛盾があらわれてくるが、幕藩領主層はこの封建的危機を回避し体制を維持しえた段階であるとし、これを天保期以後の崩壊期と区別する説がある。
 近世の封建制度は当初から土地経済をたてまえとしながらも、他方では貨幣経済に依存するという二元的な経済機構を内包しており、とくに後者の躍進につれて、その矛盾は増大した。この矛盾を端的に表現したものが幕府や藩の財政窮乏であり、それが幕藩政改革の共通課題となったのである。これに関連して農民や町人の生活が展開した。村と百姓のほかに、幕藩体制の基礎をなしたものは町と町人であった。三都をはじめとして城下町・宿場町・在郷町など町場の発達にともなって都市文化・町人文化が開花し、これが地方文化・農村文化興隆の一つの要因にもなった。とくに近世後期における地方の庶民文化の発達は注目に値する。近世は学問が発達し教育が普及した時代であり、儒学の中でも朱子学は封建教学として尊重奨励された。これに対して、幕藩体制の変質動揺期には国学・蘭学・心学など新しい学問や思想が台頭したのである。