今川氏の人質となる

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 竹千代は天文十八年十一月から永禄三年(一五六〇)五月まで、八歳から十九歳までの十二年のあいだを駿河府中で送った。竹千代は生母於大が離別されてからは大叔母於久に、駿河府中に移ってからは実祖母大河内氏(於大の実母、のち松平清康の妻、華陽院)に養育された。【雪斎】そして臨済寺の住持太原崇孚(たいげんすうふ)(法号雪斎)について教えをうけたという。天文二十四年(弘治元年、一五五五)三月、十四歳で元服して松平次郎三郎元信といった。蔵人佐を称するが、義元が斡旋して宮廷の許可をえたのであろう。
 弘治二年五月、元信は義元の許可をえて七年ぶりで岡崎に帰る。岡崎には今川氏の城代が鎮し、松平氏の家臣団は今川氏の先鋒として戦場にがり出される。松平氏譜代の受難ぶりは大久保彦左衛門忠教の『三河物語』にいきいきと描写されている。
 【築山殿】翌三年正月、元信は十六歳で今川家の重臣関口刑部大輔義広の娘と結婚した。駿河御前・築山(つきやま)殿・築山御前(つきやまごぜ)ともいうが、実名は不明である。元信は室町将軍義輝に、鹿毛の名馬一疋を贈呈したので、自筆の御内書(ごないしょ)に添え嫁取の祝儀として来国光(らいくにみつ)の太刀一腰を与えられた。その写しが『武家雲箋』にのっている。
 弘治三年五月三日(『高隆寺文書』)と永禄二年五月十六日(『弘文荘所蔵文書』)とのあいだに元信は元康と改めた(永禄元年には改名した可能性がある)。